正保四年長崎警備の図
しょうほうよねんながさきけいびのず
概要
寛永15年(1638)年に終結した天草・島原の乱をうけ、禁教政策を徹底させるために幕府は寛永16年にポルトガル船の来航を禁止した。ところがその翌年にポルトガル船が通商再開を求めて再び来航したため、乗組員74名中61名を長崎にて処刑した。その報復に備えるための長崎警備が寛永18年に福岡藩、寛永19年に佐賀藩に命じられて以後、正保4年(1647)に初めてポルトガル船が来航した際の長崎港の様子が本図に描かれている。 停泊中のポルトガル船2隻と対峙するように無数の早船が控えており、神崎・女神間に臨時で作られた舟橋がポルトガル船の脱出を防いでいる。沿岸部には佐賀・福岡両藩に加え、緊急動員された熊本藩・柳川藩・小倉藩・唐津藩、さらには松山藩や今治藩など西国各藩の陣幕が賑々しい。各陣幕には「人数」と「舟数」が示されており、「松平信濃守」(初代佐賀藩主・鍋島勝茂)は11,350人・125艘を送り込んでいるが、数値は他の諸資料と必ずしも合致しない。また、各藩(大名家)の家紋にも正確ではないものがある。本図は後世に描かれたもので、この事件後の承応2年(1653)に造営が始ま7七ヵ所台場が描かれている点など注意を要するが、江戸前期の物々しい警備の様子が伝わってくる。