裸体美人〈萬鐵五郎筆/油絵 麻布〉
概要
緑の野草が生い茂った丘の斜面に、下半身を朱衣で覆った裸婦が手前に足を向け、左手枕に横臥している。裸婦は左側を下に両足をほぼ揃えて軽く膝を曲げるが、右手は肘と手首を屈しぎこちなく右腹の上に乗せる。丘の向こうに遠景と空が広がる。丘の上を越えた辺り、画面左右上端から樹木が枝を伸ばし、さらに黄色い丘陵とその向こうに紫色を呈する遠山の山なみが見え、白雲がその上にたなびく。青空には大きな赤みを帯びた雲がぽっかり浮かんでいるが、楕円形に赤色が塗られ隠された太陽が示唆されている。
萬鐵五郎(一八八五-一九二七)は岸田劉生や中村彝らと並び大正期の日本洋画を代表する画家である。明治末年、雑誌『白樺』や高村光太郎らにより自我の解放を謳う新思潮とともにフランス後期印象派の絵画が紹介されたが、美術学校在学時にその感化を受けた萬は、四一年の生涯の間にフォーヴィスムの影響を受けた「裸体美人」やキュビスムを取り入れた「もたれて立つ人」(大正六年)などを制作し、西洋の新様式に触発されながらも一貫して独自の表現を追求した。その画業は、西洋から移入した「近代的」芸術理念を日本化する先駆的な業績として評価されている。
明治四十年東京美術学校西洋画科に入学した萬は、アカデミックな洋画技法を学ぶとともに、新たに紹介されたマチスらフォーヴィスムをも含むフランス後期印象派の絵画にいち早く共鳴し、明治四十四年にアブサント会、翌年には岸田劉生や高村光太郎らの結成したフュウザン会に参加している。「裸体美人」はその最中、明治四十五年(一九一二)に卒業制作として描かれた。
本図は日本フォーヴィスムの記念碑的作品として評価が高いが、萬の絵画の特徴を端的に示す代表作でもある。本人も認めるようにゴッホやマチスといった画家たちの感化が指摘される正面観の強い構図や輪郭線を多用する画面構築、背景の山なみや雲にみる造形感覚と色感、さらにどこか諧謔的ともいえるモチーフなどは萬独自のものである。ここで萬は単なる新様の模倣ではなく、自己の内的な必然に即した表現をすでに追求しているといって良い。
黒田清輝を中心とする外光派が主流であった時代にあって、本図は極めて斬新で前衛的であり、個性的な芸術家たちを輩出した大正時代の劈頭を飾る作品として、日本の近代洋画史上重要な位置を占めている。