智・感・情〈黒田清輝筆 一八九九年/油絵 麻布〉
概要
黒田清輝【くろだせいき】(一八六六-一九二四年)は近代日本洋画史において最も重要な画家の一人であり、すでに「舞妓」(明治二十六年作、東京国立博物館)と「湖畔」(明治三十年作、東京国立文化財研究所)が重要文化財となっている。
黒田の絵画史上の意義は日本的洋画を確立したことにあるが、既指定品二作は、以後の日本洋画の流れを用意した記念碑的な作品といえる。しかし、黒田が一〇年にわたるフランス留学の成果として日本に紹介し根付かせようとしたのは、人体を主とした構成画もしくは理想画であったといわれ、新設された東京美術学校西洋画科では初めて裸婦素描を課程に組み込んでいる。これに先立つ明治二十八年の内国勧業博覧会に留学中の成果である「朝妝【ちょうしょう】」を発表し、いわゆる裸体画論争を巻き起こしたが、「智・感・情」が発表されたのはこの二年後の明治三十年(一八九七)、第二回白馬会展においてである。
本図は日本人モデルを用いた裸婦像の嚆矢といわれるが、裸体画論争に対する画家の意識的な制作ともみえる。しかし、モデルの個性を切り捨てプロポーションを極端に理想化し、背景を日本画のような金箔地としていることなど、画家の制作意図がむしろ本格的な構想画の制作にあったことを示している。本図は明治三十二年に加筆されたあと、同三十三年(一九〇〇)パリ万国博覧会に出品した意欲作であって、日本側出品者では最高の銀牌【ぎんぱい】を受賞しているが、黒田が当初より万博出品を予想していた可能性も指摘されている。このような構想画の試みは、藤島武二や青木繁らに形を変えて引き継がれていく。
日本洋画史の上で黒田の画業を評価するとき、明度の高い色彩をもって日本的な画題を描いて見せた「舞妓」や、日本的な洋画表現を具現した「湖畔」と並んで、西洋の正統的な絵画観を日本に移植しようと努めたという点で、裸婦を用いて抽象的概念を表現しようとした記念碑的な作品である本図もまた、高い価値を有しているといえよう。