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朝鮮通信使遺跡
 鞆福禅寺境内
 牛窓本蓮寺境内
 興津清見寺境内

ちょうせんつうしんしいせき
 ともふくぜんじけいだい
 うしまどほんれんじけいだい
 おきつせいけんじけいだい

概要

朝鮮通信使遺跡
 鞆福禅寺境内
 牛窓本蓮寺境内
 興津清見寺境内

ちょうせんつうしんしいせき
 ともふくぜんじけいだい
 うしまどほんれんじけいだい
 おきつせいけんじけいだい

社寺跡又は旧境内

2県以上

福山市鞆町、瀬戸内市牛窓町、静岡市清水区

指定年月日:19941011
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

朝鮮通信使は朝鮮国王が日本に派遣した使節で、室町幕府の時にはじまった。江戸時代には、徳川将軍の代替りごとに使節が訪れ、鎖国をつづけていた日本に、外国文化をもたらした。
 慶長12年(1607)国交回復の使節団504人(別の史料では467人)が朝鮮国王から日本に派遣され、将軍徳川秀忠に謁見した。これが江戸時代における第1回の朝鮮通信使である。以後、歴代将軍の襲職や世継の誕生を祝賀する使節が文化8年(1811)まで12回来日している。
 鎖国体制の中で、中国(明・清)、オランダは「通商の国」、朝鮮・琉球は「通信の国」(通信とは外交の意である)であった。武力征圧をうけていた琉球を別として、徳川政権にとって朝鮮は正式な外交のある唯一、対等な国家であった。このため徳川氏は心をくだいて迎接し、諸藩も競って接待した。徳川氏にとっては政権の威信を内外に表現する場でもあった。
 通信使の通過経路はほぼ定まっており、対馬→壱岐→筑前藍島→長門赤間関→周防上関→安芸蒲刈島→備後鞆→備前牛窓→播磨室津→摂津兵庫→大坂(以後陸路)が普通である。
 鞆では福山藩が接待を行い、三使(正使・副使・従事)は福禅寺客殿(対潮楼)に宿泊した。正徳元年(1711)家宣襲職祝賀のおり対潮楼に宿泊した従事官李邦彦は「日東第一形勝」と大毫したが、仙酔島等を望む対潮楼からの景観は、通信使一行が大きく期待するところであった。寛延元年(1748)は家重襲職祝賀の使節であったが、福山藩主水野氏が大坂城代であったため、かわって宇和島藩主伊達氏が接待した。ふなれもあって宿所を対潮楼としなかったため、問題がおきたほどである。なお、福禅寺本堂の棟札には「元禄第七甲戌」(1694)とある。客殿は元禄頃創建と伝え、文化2年(1805)に修理したものである。
 牛窓は岡山藩が接待するところであり、家綱襲職の明暦元年(1655)までは本蓮寺に三使が宿泊した。天和2年(1682・綱吉襲職)、客館が御茶屋に移って以降は、本蓮寺客殿は接待の場所として使用された。本蓮寺境内には本堂、番神堂、中門など室町時代の建造物が残っている。また、牛窓の町には通信使の風俗をまねたという「唐子踊り」の風習が伝わる。
 興津、清見寺はかつては清見潟を隔てて三保松原を望むことができ、鞆浦とともに通信使一行が絶景として賞讃したところである。ここが使館として利用されたのは慶長12年(1607)と寛永元年(1624)の2度であるが、寛永13年(1636)以降は道中の休憩所として利用された。本堂にかかる「瓊瑶世界 螺山」を始め、多くの朝鮮通信使の筆になる掲額があるが、特に方丈にかけられた呂祐吉ら慶長12年(1607)の三使の書は寛永元年(1624)の副使姜弘重の記録(『東槎録』)によれば、すでに当時にも壁間に掲げられていたものである。また方丈前にある臥竜梅は慶長12年の慶〓(*1)の『回槎録』にも登場する古木である。
 朝鮮通信使は近世におけるわが国と朝鮮の平和外交の象徴であった。現在対外関係を示す遺跡はオランダ関係2か所、アメリカ合衆国関係2か所が史跡に指定されているが、隣国との友好関係を示す朝鮮通信使の遺跡は重要である。今回関係する遺跡のうち、往時の遺構・建造物などが良好に残る鞆の福禅寺境内と牛窓の本蓮寺境内および興津の清見寺境内を史跡に指定し、その保存を図るものである。
 朝鮮国王によって派遣された外交使節団、朝鮮通信使は、江戸時代に12回訪れ、鎖国下の日本に外国文化をもたらした。徳川氏にとっては政権の威信を内外に示す場でもあり、代官や諸大名に命じて接待・送迎させた。通信使の経路は大坂までは海路で、以後は陸路をとった。鞆では福山藩が接待を行い、三使(正使・副使・従事)は福禅寺客殿(対潮楼)に宿泊した。正徳元年(1711)家宣襲職祝賀の際、対潮楼に宿泊した従事官李邦彦は「日東第一形勝」と揮毫したが、対潮楼からの眺めは通信使一行の大きく期待するところであった。寺域北端に当たる追加指定地は現在墓地となっているが、江戸時代末(嘉永〜安政頃と推定される)の絵図(木版)では庚申堂などが描かれており、江戸時代には境内地として一体的に機能していたことが確認される。境内地を画する北側の石垣は少なくとも江戸時代にさかのぼるものであり、追加指定により、通信使が訪れた時期の境内地全体を一体的に保全し、近世における我が国と朝鮮の平和外交の象徴である史跡の保護に万全を期するものである。

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