安井息軒旧宅
やすいそくけんきゅうたく
概要
S53-12-039[[安井息軒旧宅]やすいそっけんきゅうたく].txt: 幕末の儒学者として著名な安井息軒は、幼名を順作、字を仲平、名を衡といい、寛政11年正月、〓(*1)肥藩士安井滄州(字は子全・平右衛門、名は完)の次男として、日向国清武郷中野の地に生まれた。幼少よりよく書を好み、文政3年(1820)、大坂に出て篠崎小竹の門下生となったが、翌年、兄清渓(字は士朴、名は淳、通称は文治)が死んだため、文政5年(1822)帰郷した。文政7年(1824)、江戸に出、昌平坂学問所に入って古賀〓(*2)庵の門下生となり、次いで松崎慊堂に師事した。
文政10年(1827)、藩主伊東祐相に従って帰国し、清武の郷学明教堂の教授となって子弟の教育に尽力した。天保2年(1831)、藩校振徳堂が完成すると、父滄洲はその総裁、息軒は助教に任ぜられたため、一家は〓(*1)肥に移住した。息軒は、その後、天保9年(1838)、江戸に定住し、藩や幕府に仕え、三計塾を開いて谷干城等を育て、多くの論者をものして、明治9年(1876)9月、麹町土手3番町で生涯を閉じた。
息軒の宅跡は、清武川の東の台地上、旧侍屋敷の一角にある。南には双石山・荒平山等が連なり、西には韓国岳等の山脈が遠望される。道を隔てた北隣は明教堂跡である。宅跡は現在半九公園となっており、息軒当時の地割は崩れているため、当時の宅地規模を正確にはかることはできない。天保2年、一家の〓(*1)肥移住後、中野の旧家は他人の手に渡った。
その後、大正12年、旧家は売家となって新町に移されたが、跡地は同年、町で買収し、旧宅も昭和4年に町で買い戻して現在地に再建された。その際旧宅は、旧位置よりやや西の現在地に建てられた。こうした変遷のため、旧宅は必ずしも旧規の通りとはいい難いが、現状は、瓦葺平家建て、建坪62.7平方メートル、北に入口を造り、東向きである。内部は、8畳の床の間、床の間に続く10畳の間、その裏に4畳半の間2間と台所が設けられている。瓦葺に改められたのは昭和40年で、以前は茅葺であった。