大原幽学遺跡
旧宅、墓および宅地耕地地割
おおはらゆうがくいせき きゅうたく、はかおよびたくちこうちちわり
概要
大原幽学は各地を遊歴研鑽性学(性理学)を唱導し、天保初年房総に来り、特に北総の間に多数の信奉者を得た。
天保十三年九月長部村(現大字長部)八石に居を定め、次いで講堂の改心楼が営まれた。その説くところは生活諸般の改善にも及び、特に先祖株組合の創設、土地の交換分合は農村の維持に寄与するところが多かった。嘉永五年幕府の嫌疑を受けて訊問数ケ年に及び安政五年末百日の謹慎と改心楼の取毀を命ぜられた。翌六年正月歸宅、三月八日御塚の地において自殺した。墓表として、もと榊が植えられていたが大正十一年石の墓表に改められた。旧宅は台地の縁辺にあり、山林に土地を切り開いて営まれ、平家建八畳二間に台所を附した簡素な建物で天保十四年に建てられ幽学の設計にかかる。改心楼の跡はその西方にあり、この地には幽学の死後性学修業者のために弁当所が建てられた。更にこの北西に略々方形の削平地がある。また旧宅の北東にあたり明治五年二代遠藤亮規が性学研究者のための教会所を建てた跡がある。長部の民家はもと台地上に集り地の利悪るく、ために幽学は土地の交換分合を行い二軒宛台地の裾に分散せしめ、耕地はその前面に移した。その遺構は所在に見られるが、指定地は旧宅の台地の裾にあり、宅地の耕地を含むこの耕地の区劃は幽学自らの設計にかかり短冊状に劃された畦畔が整然と並んでいる。性学は心学に類し、必ずしも時に時流に擢んでたものとは称し難いかも知れないが幽学がよく実践に移して教化の実を挙げたばかりでなく、生活の拔本的更生にも成功したことは高く評価せられるべく、遺跡また間間改造のあとはあるがよく旧態をとどめ、学術産業に関するものの好例として価値がある。