梶栗浜遺跡
かじくりはまいせき
概要
S54-12-039[[梶栗浜遺跡]かじくりはまいせき].txt: 梶栗浜遺跡は、下関市街地の北方にあって、響灘に面した弧状の砂丘から約500メートル入りこんだ梶栗集落の西縁に位置し、北東にのびた標高3.5メートル余の狭長な砂丘に立地している。大正2年、長州鉄道(現山陰線)敷設工事の際、箱式石棺から多鈕細文鏡1面が細形銅剣2口と共に出土したことにより、学界の注目するところとなった。昭和2年、森本六爾氏の現地調査によって、遺物の出土状態やこれらが弥生時代に埋葬されたものであることが明らかにされ、その後わが国の弥生時代青銅器の研究に大きな影響を与えた。昭和7年・同10年にも各1口の細形銅剣が発見され、本遺跡の重要性が一層高まったのである。
昭和32年の発掘調査で、この遺跡が組合式箱式石棺や石囲を主体とする埋葬遺跡であることが明らかとなった。同時にこの他にも、木棺や合蓋壺棺による埋葬が行われたことも確認されている。しかも、これらの埋葬主体の直上の旧表に、墓標または墓域を示すと考えられる列石・積石状の遺構が築かれ、その傍らに1〜2個の壺が供献されているのが確認されたことは注目に値する。この調査で出土した土器は、すべて弥生時代前期末の様式のものであり、墓地が営まれた時期を確定することができた。
昭和47年には、遺跡の範囲確認を主目的とする調査が行われ、本遺跡が南北に狭長な砂丘にのみ営まれ、それ以外に及んでいないことが明らかとなった。この調査でも、前回と同様な埋葬施設が発見されたが、これまで本遺跡で未発見であった弥生時代中期の埋葬施設が検出されたことは、本遺跡の実体解明に新たな問題を提起するものであった。
梶栗浜遺跡は、略述した如く日本考古学史上の最も著名な遺跡の一つであると同時に、遺構残存状況の良好さと相俟って、わが国弥生時代墓制の解明に欠くことのできぬものである。