磯部の御神田
いそべのおみた
概要
これは皇大神宮(伊勢の内宮)の別宮伊雑宮(いぞうのみや)の御料田において行われる行事で、摂津の住吉神社のものなどとともに世に知られた田植神事である。これを輪番で執行している磯部九郷の人達の間では、この行事はオミタと通称されているが、文献には御神田と表記されている。
この行事の起源について、行事最後の次第「踊り込み」の歌に「昔真名鶴磯部の千田に、稲穂落したそのまつり」とあるように、磯部に伝承される「鶴の穂落し」の故事に関わりがあるものと地元では考えられて来た。言い伝えによれば垂仁天皇の御代に、倭姫命【やまとひめのみこと】が神宮の御贄【みにえ】地を求めて志摩の国を巡られた時、伊雑宮のあるこの地で一基【ひともと】で千穂にもなる立派な稲をくわえていた鶴に遭遇したという。江戸時代元禄の頃にこの行事の存在を示す文献もあるとされるが、行事使用の太鼓を入れる木箱に文化五年(一八〇八)の墨書銘のものがあるなど、ともかくこの行事の由来を示す史料は江戸中期以後のものとなる。
この行事に携わる磯部九郷の人達は、五知と上之郷、沓掛と山田、下之郷、穴川、迫間、築地、恵利原の各郷が、この組み合わせと順序で毎年交替で担当し、各々奉仕は八年目ごとに行っている。祭日は、明治四年一時中断する以前には旧暦の五月の吉日であったが、明治十五年復活してからは毎年新暦六月二十四日ということで日が確定して今日に至る。前日二十三日、船に乗り、伊雑浦へ漕ぎ出して潮垢離【しおごり】を掻き、当日二十四日は、早朝から諸役の一同(杁差【えぶりき】し二人、立人【たちうど】六人、早乙女【さおとめ】六人、ささら二人、太鼓打ち一人、笛二人、大鼓【おど】一人、小鼓【こど】一人、謡六人、それに警護役その他の人々)が身仕たく準備をし、午前十一時過ぎ修祓【しゆばつ】を受け、一同伊雑宮から約二〇〇メートル程離れた御料田へ行列する。いよいよ御神田行事の開始となり、まず立人と早乙女が手をつなぎあって苗代田を三周半した後早苗を取る。続いて「竹取り」の次第となる。笹葉のついた六、七メートルの竹の上方に丸い形のと縦長形のと二つの大団扇(ゴンバウチワとかサシバと称す)を取りつけた忌竹を畦に立て、これを倒すと裸の若者(漁師)達が泥田の中に引きずり込み、奪い合って持ち去る。ズタズタに切り裂いた団扇等の一部を家の神棚や船霊様に供えて豊漁祈願をする。これが終わって本格的な御田植の始まりとなる。荒れた田面を杁差しがならした後、早乙女と立人は交互に並んで田植えをする。その後方で太鼓、ささら、笛、大鼓、小鼓の楽器が囃され、謡がうたわれる。半分程植えたところで早乙女の酌による酒と若布とによる中休みの酒宴となる。この酒宴の肴にという趣向で、ささら役が、「刺鳥差舞【さいとりさしまい】」を舞う。この後、また前半と同様楽器の囃子・謡を背に田植えが進められ、午後一時過ぎ終了する。休憩の後、午後二時半頃から諸役の一同行列をして、御料田から伊雑宮まで唄をうたいつつ踊り込む。祝い唄をうたい祝儀の気分が横溢するが、一行の歩みは誠に遅く二〇〇メートル足らずの道のりを二時間もかけて進む。
この御神田は、田植作業を声や楽器でうたい囃しつつ進めるという田楽系芸能の一類(田囃子)で神田【かんだ】にて行われるもの(田植神事)の一つである。穂落しという稲作起源伝説伝承地で育まれてきたものであること、室町時代応永の頃御田祭が行われていたことを示す史料を残す皇大神宮のものと同種の行事であること等きわめて由緒のあるものである。また「竹取り」の次第、「刺鳥差舞」などがあるなど独特な形に展開した田植神事としても特徴を持つものである。
よって重要無形民俗文化財に指定し、その保存を図ろうとするものである。