聖寿寺館跡
しょうじゅじたてあと
概要
聖寿寺館跡は、青森県南東部、南部町の南西部、猿辺川と馬淵川の合流点付近に位置し、眼下に馬淵川を望み、霊峰名久井岳を遠望する。奥州街道と鹿角街道の合流点に近接し、奥州街道は館跡の東堀底道を北上する。南部氏は南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえた。南部町は甲斐源氏支流の南部氏本宗家の本拠地で、南部氏ゆかりの文化財が数多く残されている。
南部氏は、盛岡藩の史書では、14世紀末頃に聖寿寺館に本拠を移したが、天文8年(1539)に家中の内紛によって聖寿寺館は焼亡した。南部町教育委員会は、平成5年度から14年度にかけて、保存を目的に聖寿寺館跡及び周辺部の発掘調査を実施し、これまでの発掘調査、文献史学、歴史地理学、地質学調査等の成果をまとめた。
聖寿寺館跡は、標高約70mの段丘上に占地し、標高差は約26mを測る。東西約330m、南北約280mの三角形を呈し、緩く南東方向に傾斜しており、内部はいくつかに区画されていたと推定される。北側と東側は幅約6mから10mの大堀で遮断されている。北堀跡は完全に埋まりきっていないが、現地表下から堀底まで約6.5mを測る。堀底で4条の溝跡が検出され、4回改修されたことが確認された。西側は切り立った断崖で、北西端部の最高所には館神と呼ばれる小祠がある。南側には帯郭が設けられ、北西側に西側から続く堀跡が入り、堀底道になっている。掘立柱建物跡4棟、竪穴建物跡29棟、竪穴遺構8棟が検出されており、掘立柱建物跡は西側でのみ検出され、竪穴建物跡は東側に偏在する。北東部で検出された東西6.2m、南北14.2mの大型竪穴建物跡は、青森県内では中世で最大規模の事例である。出土遺物の年代は、おおむね15世紀前半から16世紀前半で文献史料とも符合する。
三光寺は聖寿寺館跡の北側に位置する南部氏の菩提寺の一つで、境内には二代実光のものと伝えられる墓所、二十六代信直夫妻の墓所、二十七代利直の霊屋、利直の四男利康の霊屋等がある。本三戸八幡宮は聖寿寺館跡の南側、馬淵川沿いの標高約55mの段丘上に占地し、標高差は約20mを測る。承久年間(1219〜22)に甲斐国から勧請したと伝えられており、北、東、南側は急崖で、聖寿寺館の防御施設でもあったと推定される。西側に16世紀前半に死去した23代安信の墓所があり、南側の馬淵川沿いにも南部氏関連の墓所があったが、川の浸食によって消失したと伝えられている。
聖寿寺館跡は、東北地方を代表する中世武士団、南部氏本宗家の室町時代から戦国時代の本拠地であり、遺構も良好に残されており、東北地方の歴史を考える上で貴重である。南部氏の宗教上の拠り所となった菩提寺の三光寺、氏神の本三戸八幡宮と併せて史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。
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国指定文化財等データベース(文化庁)