文化遺産オンライン

三溪園

さんけいえん

概要

三溪園

さんけいえん

名勝 / 明治 / 大正 / 昭和以降 / 関東 / 神奈川県

神奈川県

近代

横浜市中区本牧三之谷、本牧間門

指定年月日:20070206
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

横浜市東南部に所在する三溪園は、丘陵と谷で形成される変化に富んだ地形を持ち、面積は約18haに及ぶ。三溪園を造営した原富太郎(1868〜1939)は近代横浜随一の実業家で、三溪と号し、数寄者としても知られた。三溪園の敷地の一部は、富太郎の妻の祖父で幕末から明治時代にかけての横浜の豪商原善三郎(1827〜1899)が明治初頭に入手していたもので、三溪は明治32年(1899)の家督相続後、土地を買足しながら、自らの構想で三溪園の造営を開始。同35年には鶴翔閣を新築し、旧天瑞寺寿塔覆堂や茶室寒月庵等の移築に着手している。同38年には配下の庭師を庭園視察のため関西方面に派遣しており、この時期、造園工事は佳境に入っていたものと見られる。現在の外苑部分が一定の整備を終えたのは同39年のことで、同年5月から三溪の意向により一般に公開された。この時期、私園である三溪園の公開は画期的な試みとして特筆される。開園後も古建築の移築などの造営は続き、明治40年には、旧東慶寺仏殿を鎌倉から移築するとともに、川崎の小向などからの梅林の移植を終えている。同42年には三溪園に居を移し、大正3年(1914)には旧燈明寺の三重塔を大池西の丘陵上に移築して全園のランドマークとし、外苑を完成させた。同4年には、私的空間としての内苑の造営に着手。池や渓流の整備を進めながら、同5年には天授院、同6年には紀州藩巌出御殿の遺構と伝える臨春閣、同7年には月華殿と春草廬の移築を行い、同9年には白雲邸を新築するなど、着々と整備を進めた。内苑の造営は大正11年の聴秋閣の移築をもって完了し、翌年にはお披露目の大師会茶会を開催している。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。
三溪園は関東大震災、太平洋戦争という受難の時期を経た後、昭和28年以後、原家から財団法人三溪園保勝会に段階的に寄贈された。外苑では、昭和35年(1960)に旧矢箆原家住宅、同62年に旧燈明寺本堂が移築され、さらに平成12年(2000)には鶴翔閣が修復された。また、内苑には平成元年に、来訪者への三溪の事績の紹介等を目的とした三溪記念館が建設された。なお、三溪園の諸建物のうち臨春閣など10棟が重要文化財に、鶴翔閣など3棟が横浜市指定有形文化財に指定されている。
三溪園は、外苑と内苑からなる本来の地割と優れた庭園景観を保持している。代表的な庭園景観としては、対岸の丘上に旧燈明寺三重塔を仰ぐ大池、背後に緑の丘陵を負い前面の池水にその姿を映す臨春閣、緑陰濃い渓流と優美な姿の聴秋閣の絶妙の対比などがある。さらに、歩行に伴う庭園景観の変化も高く評価できる。また、海浜の埋立により、かつてあった松風閣跡周辺の高所からの海への眺望は失われたものの、庭園内部から視覚的に周辺の環境の変化をうかがわせるものがほぼ遮断されており、この点も大都市に所在する大庭園としては稀有の特色である。
本庭園は、近世以前の象徴主義から脱却した近代の自然主義に基づく風景式庭園として傑出した規模・構造・意匠を持ち、保存状態も良好で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い。また、当初の原富太郎(三溪)の構想どおり広く公開され、多数の来訪者に活用されている点も高く評価できる。よって、名勝に指定し、保護を図ろうとするものである。

三溪園をもっと見る

国指定文化財等データベース(文化庁)をもっと見る

キーワード

庭園 / / 本間 / 造営

関連作品

チェックした関連作品の検索