米子城跡
よなごじょうあと
概要
米子城跡は、鳥取県の西部に位置し、米子市街地の西側、中海に突き出す標高約90mの湊山と標高約60mの飯山に築かれた戦国末期から近世の平山城跡で、中世の砦から始まると伝える。西伯耆・東出雲・隠岐を領した吉川広家が、西伯耆支配の拠点支城として天正19年(1591)に築城を開始したが、広家は慶長5年(1600)に移封された。6年に伯耆17万石余の領主として中村一忠が入城し、7年に米子城を完成したが、中村家は14年に断絶した。元和3年(1617)には鳥取藩に編入され、藩主一族が米子城預かりとなった。寛永9年(1632)以降は、家老の荒尾家が代々米子城を預かり、明治5年(1872)に廃城となった。米子城跡は、文献・絵図史料が良好に伝えられており、城郭構造を良く知ることが出来る。東西南北約700mの規模で、三の丸は水堀を巡らせていたが、現在は埋め立てられて市街化している。湊山頂上部に総石垣の本丸を配し、北側の尾根上には内膳丸が突き出し、内膳丸の東麓には政庁が置かれた二の丸が続く。二の丸の南東下には大型の外枡形を構えている。米子城跡は、西伯耆支配の拠点城郭であり、戦国末期から近世初頭の形態を良くとどめている平山城跡として、我が国の歴史を考える上で重要である。