中山神社の太鼓
なかやまじんじゃのたいこ
概要
中山神社の太鼓は、欅の一木造りで、直径60㎝、長さ41.5㎝、重さ約17.6㎏をはかる。太鼓の内側には6種類の墨書の紀年銘がみられる。その中で最も古い年号は南北朝時代にあたる嘉慶2年(1388)である。紀年銘には、この太鼓が、もとは美作国高野郷法輪寺のものであり、嘉慶2年6月13日に苫田郷内福田村の浄阿ミが願主となり、大篠の木を用いてつくられたものであることが墨で書かれている。一方、文化9年(1812)成立の『新訂作陽誌』四「東南條郡高野郷山西村」の項には、「一ノ宮の楽太鼓の中に當寺の銘ありしと云う法蓮寺亡して凡八百年に及ぶと云う」とある。この「一ノ宮楽太鼓」が、当該太鼓を指し、「法蓮寺」は、太鼓の墨書の「法輪寺」を指すものと考えられる。しかし、「法蓮寺亡して八百年」という記述をそのまま読むと、法輪寺が廃寺となったのは、1000年頃の平安時代であることになり、太鼓の制作年である嘉慶2年と合わない。嘉慶2年が、制作年代ではなく、修復年代であるとすると、本太鼓は平安時代の制作ということになる。従って、嘉慶2年が、太鼓の制作年か修復年かは明らかではないが、銘文に願主の名前や、使用した木材の産地などが書かれていることから、制作年である可能性が高いと考えられる。
江戸時代の紀年銘は、寛文11年(1671)、享保5年(1720)、寛保元年(1741)、寛政11年(1799)、文政10年(1827)の5種類があり、寛文11年には太鼓が中山神社の神器となっていたことが推察される。張替えを請け負った太鼓職人の名も確認され、寛文11年、享保5年、寛保元年の張替えは、江戸時代の太鼓職人の集住地として知られる京都余部(天邊)村や、大坂渡邊村の職人によるものである。また、寛政11年の張替は大久保村(久米北条郡)の職人によるものである。嘉慶2年から寛文11年の間は約300年の開きがあるが、江戸時代は20~60年の間隔で少なくとも5回の張替がなされていることが分かる。