関辺のさんじもさ踊
せきべのさんじもさおどり
概要
関辺のさんじもさ踊は、地元で天道念仏とも呼ばれ、踊り手は、中央に赤く太陽を描いた扇を持って踊るもので、天道、つまり太陽に豊作を祈る天道念仏踊の一つである。
関辺の踊りは「さんじもさ踊」と「さんじもさ音頭」があり、そのほか、太鼓の連打や関係者の胴上げなどが行われる。
この民俗芸能の全体の名称にもなっている「さんじもさ踊」は、肩から太鼓を膝のあたりまで吊り下げた二名の太鼓打ちが、踊りの場の中央に作られた「お棚」を挟んで互いに向き合い、踊り手は、その周囲を大きく取り囲んで輪になる。右手に太陽を描いた扇を開いて持った踊り手は、太鼓の連打を合図に、歌いながら右廻りに踊り進む。各歌詞には「サンジモサ」という言葉が、調子よくついている。この踊りが終わると棚の上の餅などをおろしてしまう。
次の「さんじもさ音頭」は、単に「音頭」とも呼ばれ、太鼓打ちは太鼓を脇に抱えて、踊り手の輪に加わる。踊り手は扇を閉じて右手に持ち、歌いながら右廻りに踊っていく。踊りの区切りに太鼓が連打されると、踊り手がいっせいに棚に取り付いて揺する。三度目には、棚を引き抜いて、脇に運んで音頭が終わる。その後、短く「さんじもさ踊」を踊る。
次に踊り手が周囲に下がって見守るなかで、二名の太鼓打ちが向かい合い、膝前に下げた太鼓を、ほとんど接するほどに近づけ、速いテンボで太鼓を打つ。
その後、踊り手や太鼓打ちに関係者も加わって輪になり、三度の手打ちを行い、さらに関係者を胴上げして一連の次第が終わる。
この「さんじもさ踊り」は、旧暦六月一日前後の休日に、地区の八幡神社境内で行われる。踊り手は、一週間前の夜から毎夜練習を始め、前夜には神社参道に近い地区の集会所に集まり、一通り練習した後、注連縄作りなど、翌日の準備をしながら集会所に籠もる。当日になると、踊り手は、ミズナラの木やクマザサなどを集め、踊りの場の中央に「お棚」を作る。これは、四本のミズナラの木を、二メートルほどの高さになるように立てて支柱にし、その上部に横木を渡して供物などを置く棚を作り、クマザサや注連縄で飾ったものである。
踊り手以外の地域の関係者は、境内の清掃や棚の上に飾る三組の三つ重ねの餅の製作、踊り手が持つ白扇の中央に朱色の太陽を描き、その左右に天と祭の二文字を書いた扇を用意し、午後の踊りに備える。
関辺のさんじもさ踊の現在の歌詞には、念仏をうかがわせる言葉はないが、これは明治維新のときに置き換えたためで、「さんじもさ音頭」は本来は念仏踊であったと伝えられている。
江戸時代の白河藩領内では、各地で、降りすぎた雨を止めるため「天道念仏」が行われ、また八月の盆のころに、「さんせむさー」と歌い出される歌にのせ、鉦や太鼓、笛等で囃し踊る「念仏おどり」が行われていた記録(『奥州白川風俗問状答』文化十四年〈一八一七〉)があり、そのころ以前からの伝承であることをうかがわせている。
白河市内および隣接の西郷村内でも、ほとんど各集落ごとに、天道念仏踊が行われていたが、明治以降は徐々に行われなくなり、現在では確実な伝承は、この関辺のさんじもさ踊と西郷村の上羽太の天道念仏踊だけとなっている。
関辺のさんじもさ踊は、関東中心に伝承が確認される天道念仏のなかで、芸能を中心とした伝承の一つとして貴重で、芸能の変遷の過程および地域的特色を示している。
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