上羽太の天道念仏踊
かみはぶとのてんどうねんぶつおどり
概要
上羽太の天道念仏踊は、天道、つまり太陽に豊作を祈る天道念仏踊の一つで、踊りの場に、太陽と三日月をかたどった飾りを掲げ、念仏を含む歌に合わせて踊られる。
この天道念仏踊は、上羽太公民館の前庭を踊りの場にし、毎年六月の第一日曜日に行われて、当日の午前中から飾りの準備などを始める。公民館の座敷を庭に向かって開け放ち、庭の四隅に臼を置いて方形の踊りの場を作る。座敷の向かい側とその両側には、臼と臼の間に梯子を掛け渡して三方を囲い、なかに籾殻を敷く。各臼には笹付きの竹を立て、竹と竹の間に注連縄を張る。座敷の前に棚を置き、その上に御幣【ごへい】や野菜、升に入れた米、一メートルほどの長さの割竹に色紙を飾った「花飾り」と呼ばれるものなどを供え、座敷の軒に、朱色で円形の太陽を示すものと、黄色の三日月を示す飾りを掲げる。踊りに先立ち、関係者が踊りの場に入り棚に向かって並び神事が行われる。
踊りは「軽井沢」「十二あぐ」「竹島」「うちわ太鼓」「サーホイ(そばまき)」「ふん返し」「サンジモサ(豊年太鼓)」の七種で、この順番に踊る。最後の「サンジモサ」は、腰に太鼓を付けた四人の踊り手が向かい合い、太鼓を打ちながら、周囲に並んだ人びとの歌に合わせて踊り、歌と歌の間には太鼓を連打する。その他の踊りは、笛と、太鼓を打ちながら歌う歌い手が脇にいて、十数名の踊り手が踊りの場に入り輪になって踊る。歌い手は「上げ念仏」、踊り手は「下げ念仏」と呼ばれ、まず踊り手が踊りながら「ナーモアーミダーアョブツ」と歌い出し、歌い手がそのあとを歌い踊りが続く。地元では、踊りの所作を、地起こし、種蒔き、鳥追いなど、年間の農作業を意味しているという。七種の踊りが終わると、踊り手は踊りの場の笹竹や注連縄などの飾りをはずし、それを手に持って、さらに「軽井沢」を踊る。踊りの途中に太鼓が連打されると、それを合図に、飾りを持った踊り手たちは、近くの住吉神社の祠に向かって走り出す。神社の鳥居に注連縄を巻きつけたり、笹竹などを供え、皆で踊りを奉納してすべての踊りが終わる。
この天道念仏踊りは、昭和五十一年に地区に公民館ができてから、公民館を中心に行われるようになったが、それ以前は、毎年、当番の家を決めて、その家の庭を踊りの場として行われ、期日も、六月の田植えが終わったころに、その年の期日を決めていたという。
江戸時代の白河藩領内では、各地で、降りすぎた雨を止めるため「天道念仏」が行われ、また八月の盆のころに、「さんせむさー」と歌い出される歌にのせ、鉦や太鼓、笛等で囃し踊る「念仏おどり」が行われていた記録(『奥州白川風俗問状答』文化十四年〈一八一七〉)があり、そのころ以前からの伝承であることをうかがわせている。
白河市内および隣接の西郷村内でも、ほとんど各集落ごとに、天道念仏踊が行われていたが、明治以降は徐々に行われなくなり、現在では確実な伝承は、この上羽太の天道念仏踊と白河市の関辺のさんじもさ踊だけとなっている。
上羽太の天道念仏踊は、関東中心に伝承が確認される天道念仏のなかで、芸能を中心とした伝承の一つとして貴重で、芸能の変遷の過程および地域的特色を示している。
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国指定文化財等データベース(文化庁)