珠洲陶器窯跡
すずとうきかまあと
概要
珠洲陶器窯跡は本州の日本海に突出する能登半島の先端に分布する大規模な中世陶器の窯跡である。東西約15km、南北約20kmの範囲内に窯跡が分布し、数基単位からなる支群が12、総計40基以上が丘陵上に点在している。珠洲焼は須恵器系の中世陶器で、近世以降生産が途絶したことから、その存在は戦後に確認された。窯は12世紀後半ころから15世紀末ころまで継続し、製品は北陸から北海道に至る日本海側沿岸地域に広く供給され、城館や集落に普及した。窯の構造は基本的に単房の地上式窖窯で、最終末の西方寺1号窯のみは完全地下式である。製品は還元焔焼成で灰色を呈し、器種は中世陶器通有の壺・甕・すり鉢の3種が大半を占める。初期には経筒・仏神像・水瓶等のほか土錘などもみられる。製作技法は、粘土紐巻き上げののち叩き締め・ナデで成形し、刻文・刻印・櫛目文のほか秋草文など豊富な文様を加える。窯構造や製品の技術系譜は、東播磨の須恵器系窯を主とし常滑・渥美など東海の瓷器系窯の影響もみられる。窯跡の大半が能登最大の荘園である若山荘の荘域にあり、その関与が推定されている。珠洲陶器窯跡は、広大な北東日本海域に流通した大規模窯であり、この地域の広域の生産と流通の実態や生活や信仰、社会・経済のあり方を知る上で欠くことのできない遺跡である。