志布志城跡
しぶしじょうあと
概要
志布志城跡は鹿児島県東部、志布志湾北側の前川河口に近いシラス台地上に展開する大規模な山城である。大隅・日向南部地方では中世に肝付氏・島津氏・伊東氏等が割拠し、志布志城はその拠点城郭として重要な位置を占めていた。天正5年(1577)に薩摩と大隅を統一した島津氏は志布志に地頭を置き、豊臣秀吉による九州平定を経て、慶長年間にはその役割を終えたが、城下には引き続き麓集落が置かれた。
志布志城跡は近接して存在する4箇所の城郭の総称である。東から内城跡・松尾城跡・高城跡・新城跡となり、中心となるのは規模や構造から見て内城跡であり、いずれも標高は50m程である。内城跡は東側に中世以来港として利用されていた前川が流れ、西側は沢目記馬場と称される南北道路を隔てて松尾城跡と対峙する。この南北道路と前川沿いの道路に面して多くの近世の武家屋敷が連続しており、その庭園遺構や地割は現在も市街地の中に良く残されている。
志布志町教育委員会では15・16年度に内容確認のための発掘調査を実施した。内城跡は北東から南西に延びる台地の尾根南端に立地する。南北約500m、東西250mの規模で、北端を東西の大規模な空堀で遮断し、さらに6箇所の大きな郭を空堀で区切りながら並べる。これらの東側には空堀と土塁、東側下にも多数の郭群を設け、西側は平行して大規模な空堀と土塁、切岸が設けられ、厳重に防御されている。主要な郭はさらに二つに分かれ、土塁が伴い明瞭な虎口が確認できるものもある。
松尾城跡は南北に延びる尾根南端に立地する。南北約300mで、東西最大200mほどあるが、南に向かって先細る。北端を空堀で遮断する。郭は北端のものを除くと小規模である。
高城跡は松尾城の西側に谷を隔てて立地する。自然地形の谷により南北に大きく分けられる。北側の郭は東西及び南北が約150mで西側を空堀で切り、さらに中央を大きな空堀で東西に分けていたと思われる。南側の郭は東西約150m、南北約250mで西側は大きな空堀を介して新城跡となる。郭西側に土塁がある。
新城跡は東西及び南北とも約250mで東側と北側を空堀で遮断する。中学校の建設により、北西部は旧状をとどめていない。
出土遺物は中国産の青磁・白磁・染付、タイ産陶器、国産では備前焼を中心にして土師器が確認される。これらはおおよそ14世紀から16世紀のものであり、それぞれの城郭には大きな時期差は見られず、おおむね併存していたと考えられる。終末は16世紀の中葉から後半にあり、島津氏統一以降はあまり使われなくなったと推定される。
このように志布志城跡は南九州の太平洋交通の要衝の地に位置し、4つの城郭からなる大隅・日向南部地方の拠点的城郭であり、広大な城域が城下の武家屋敷を含めて景観とともに良く保存されている。