増山城跡
ますやまじょうあと
概要
増山城跡は、富山県西部に展開する砺波(となみ)平野東縁、標高約120mの丘陵上に立地する大規模な中世山城である。この地は交通の要衝に位置し砺波、射水(いみず)、婦負(ねい)の三郡の境にあって、戦国期には守護代神保氏、一向一揆勢、越後長尾(上杉)氏などが割拠した。天正4年(1576)に上杉謙信により増山城は落城し、謙信が没すると織田信長勢が進出し、天正11年、信長配下の佐々成政の居城となった。その後、豊臣秀吉が越中に侵攻し、天正13年成政が降伏した後、前田利家の重臣中川光重が城に入り、慶長年間頃まで存続したと考えられる。城跡は、和田川東岸の南北約1.4㎞、東西0.9㎞の広大な範囲に及ぶ。天保年間の絵図で二ノ丸とされている郭の標高が最も高く、東西90m、南北50mの最大規模をもち、北東隅に櫓台(やぐらだい)が設置されていることから、ここが主郭と考えられる。これに加えてこの郭を囲むように四方に一ノ丸、安室(あじち)屋敷、三ノ丸、無常の郭群を配置して中心部を固めている。一方、和田川西岸には城下町が展開しており、出土遺物から佐々氏から前田氏の時代に城下町が整備されたことが知られる。
増山城跡は、戦国期から織豊期に北陸地方の覇権形成において重要な役割を果たし、富山県内屈指の規模と防御機能が発達した縄張を有する越中を代表する中世城郭である。