天正七年十一月十六日付神保氏張知行安堵状(海老坂藤兵衛宛)
てんしょうななねんじゅういちがつじゅうろくにちづけじんぼうじはるちぎょうあんどじょう えびさかとうべえあて
概要
越中守護代庶流で守山城(現高岡市)主・神保氏張(1528~92)が、海老坂藤兵衛へ後雲寺領14俵1斗6升の知行を安堵したもの。「後雲寺」は現高岡市太田の江雲庵(臨済宗国泰寺派)とされる(※1)。本史料は木倉豊信「上坂家(こうさかけ)文書目録」(※2)に1号文書として掲載されている。海老坂藤兵衛は上坂家。現高岡市東海老坂の旧家で、氏張からはもう1通「天正11年7月26日付神保氏張年貢請取状(小四郎宛)」(当館蔵、先の木倉氏目録の3号文書)が伝わっている。
本史料は他に、木倉『中越史徴』、『富山県史 史料編2 中世』1940号文書、『氷見市史』3資料編一 198号文書にも収録されている。
本史料は次の6通が連続して巻子装されているうちの2通目である。年未詳4月4日付前田利光書状(後欠)、天正7年(1579)11月16日付神保氏張知行安堵状(海老坂藤兵衛宛)、年未詳7月28日付奥村伊予守書状(宛所不明)、年未詳6月20日付横山英盛書状(海老坂村五兵衛宛)、年未詳2月11日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)、年未詳5月10日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)。この内、木倉氏が「上坂家文書」として採録した35通に入っているのは、神保氏張知行安堵状のみであり、この表装順に特に意味は無いようである。
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【釈文】
後雲寺領
十四俵壱斗
六升之所、如
先規聞分
申付候間、可所
納候者也、仍
如件、
天正七
十一月十六日 氏張(花押)
海老坂
藤兵衛とのへ
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【神保氏張】(1528~92)
越中射水郡古国府城(現勝興寺)・守山城主。通称宗五郎、清十郎、氏晴・氏春とも。安芸守。出自は判然とせず、能登・越中守護の畠山義隆次男(義綱猶子か)とも、越中守護代神保氏庶流で婦負郡の国人、のち守山城主となる神保氏重の子(氏純の養子か)ともされる。
永禄11年(1568)上杉謙信、及び守護代本家神保長職に守山城が攻められると京に追放され、織田信長に接近。天正初年、その妹を妻とした。しかし謙信が侵攻してくるとこれに従う(「上杉家家中名字尽」天正5年12月23日)が、同6年(1578)その死去により、信長方の佐々成政に属した。同13年(1585)、秀吉の成政征伐により守山城は前田利長が城主となる。同15年の成政肥後改易に氏張も従う。翌年肥後国人一揆が起こり、その責を問われて成政が刑死したのち、徳川家康に召し出され、下総国香取郡2千石を与えられた。子孫は旗本として続いた。
※1.『氷見市史』3 資料編一「198号文書」(氷見市、平成10年、p323)。江雲庵は国泰寺塔頭五か支院として月光山江雲寺と称したが天正13年閏8月、前田利家が国泰寺方丈を守山へ徴発した際、随伴して諸般取計いにて役院に加えられ現称に改めた。なお『富山県史 通史編Ⅱ 中世』(富山県、昭和59年、p1078)では後雲寺を「国府(国分カ)光西寺」(高岡市伏木東一宮)と推察している。
※2.『越中史壇』28(越中史壇会、1964.3)