慶長六年七月七日横山長知書状(綾子村・加茂村・守山町 肝煎中宛)
けいちょうろくねんしちがつなのかづけ よこやまながちかしょじょう あやこむら かもむら もりやままち きもいりちゅう
概要
前田利長の側近・横山長知がおそらく自分の知行地と思われる町村に対し、荷物を富山まで運ぶように、また馬三匹で村送りに届けよと指示している。綾子村は現小矢部市、加茂村は現高岡市福岡。
木倉豊信『中越史翰』収録(荷物の富山迄継送につき馬三疋届方申渡状)。長知(1568~1646/ながちか)は後に加賀八家となる横山家2代。大膳は通称。慶長12年(1607)に武蔵守と改める。慶長20年(1615)閏6月に山城守に任ぜられた。
現高岡市東海老坂の旧家・上坂(こうさか)家文書のうち。木倉豊信「上坂家文書目録」〔『越中史壇』28(越中史壇会、1964.3)〕の8号文書。
本史料を含む次の4通(全て横山長知書状)が連続で巻子装され、その1通目である。
①慶長6年7月7日付横山長知書状(綾子村・加茂村・守山町 肝煎中)、②寛永14年11月7日付横山長知年貢免状(氷見庄海老坂村百姓中宛)、③(慶長6年カ)8月3日付横山長知書状(守山町 小四郎・春四郎・彦左衛門宛)、④寛永8年10月25日付横山長知免相申付状(海老坂村・宇波村・小坂井村宛)。
----------
【釈文】
以上、
此荷物と山迄
遣候条、馬参疋
村送ニ可相届
者也、
大膳
慶長六
七月七日 長知(花押)
綾子村
加茂村
守山町
肝煎中