脇本城跡
わきもとじょうあと
概要
脇本城跡は秋田県中部、日本海に突き出た男鹿半島付け根南岸の丘陵上に展開する大規模な山城で、中世末の安東氏の居城である。安東氏は津軽地方の豪族であり、鎌倉時代に北条得宗家に仕えた代官で蝦夷管領を勤めた。その勢力は津軽地方から北海道南部に及び、秋田地方にはその一族である檜山安東氏、湊安東氏がそれぞれ北部の檜山城、中部の秋田湊城に拠点を置いた。安東愛季は元亀元年(1570)頃に安東氏を統一して既存の城を改修して脇本城を築いた。脇本城が廃城になったのは天正18年(1590)、秀吉の奥州仕置から慶長7年(1602)の佐竹氏による久保田城築城の頃と考えられる。
脇本城跡は日本海に面した標高100m前後の丘陵上に展開する。海に直角に突き出た生鼻崎の斜面は白い崖面を見せて象徴的であり、ここから連続する丘陵は南北約2km、東西約1.5kmの範囲をもつ。城跡からは南に日本海、遠くは鳥海山、東から北にかけては八郎潟から檜山地方、西には男鹿半島の山々が見渡せる。城跡直下の海岸には脇本港がある。
男鹿市教育委員会では平成5年度から縄張り調査を継続し、平成12年度から発掘調査を実施してきた。その結果、内館地区、馬乗場(古館)地区、兜ヶ崎地区の3地区に主な遺構が分布することが確認された。内館地区は日本海に最も近く、分布する遺構は大規模であり、城郭の中枢をなす。谷を囲む丘陵尾根を大規模に階段状に造成して、一辺が数十m規模の方形を呈する郭が連続して配置される。郭には高い土塁が囲み今も窪みとして残る井戸も見られる。馬乗場地区は丘陵中央に位置する。広く整地を行い、T字状に直線道路を敷設してこれに面して方形の屋敷が配置される。兜ヶ崎地区は東側の独立した丘陵に立地し、方形を呈する主郭の周囲に階段状に郭が造成されている。
丘陵東側の裾には前身の法蔵寺に愛季が葬られたと伝えられる萬境寺、愛李の兄弟が開いたとされる本明寺などが存在する。また、日本海に沿った平地には、直線道路に短冊形地割が連続する脇本の集落があり、城下集落として機能していた可能性がある。
出土遺物は中国産の白磁、青磁、染付、褐釉、国産では瀬戸美濃焼、能登珠洲焼、越前焼など15、16世紀のものが確認される。
安東氏は蝦夷島を含む日本海北部に勢力を伸ばして活躍したが、脇本城跡は日本海交通の要衝の地に位置し、直下に港を備えており、安東氏の活動拠点としてふさわしい大規模な山城である。城跡に関係する寺院群や城下の集落を含めて広大な城域が環境・景観とともによく保存されている。よって、萬鏡寺・本明寺を含めた城跡を史跡に指定し保護を図ろうとするものである。