烏帽子形城跡
えぼしがたじょうあと
概要
烏帽子形城跡は,大阪府河内長野市の市街地の南,石(いし)川と天見(あまみ)川の合流点のすぐ南の標高約180mの丘陵尾根部に所在する中世の城跡である。城跡の東麓には京・堺と紀伊とを結ぶ高野(こうや)街道が走るなど交通の要衝に位置する。
河内(かわち)守護職(しゅごしき)畠山氏の城の一つであったが,応仁の乱前後から織豊期(しょくほうき)まで諸勢力による戦いの場となった。応仁の乱の契機となった河内守護職畠山氏の分裂抗争において,文正(ぶんしょう)元年(1466)に「押子形城(おしこがたじょう)」として初めて文献に登場する。応仁の乱後も分裂した畠山氏の抗争は続き,大永(だいえい)4年(1524)には,再び合戦の舞台の一つとなり,その後,新興勢力の三好(みよし)氏勢と畠山氏勢が合戦を繰り返す場となった。天正(てんしょう)12年(1584)には,羽柴秀吉が根来寺(ねごろじ)攻略の拠点として修復している。
城の規模は,南北約140m,東西約160mであり,丘陵頂部に主郭(しゅかく)となる曲輪(くるわ)が位置し,これを土塁と堀で囲む構造である。堀底からは障壁遺構も見つかった。
中世から近世初頭にかけての畿内の政治・軍事の歴史を理解する上で貴重である。