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都於郡城跡

とのごおりじょうあと

概要

都於郡城跡

とのごおりじょうあと

城跡 / 九州 / 宮崎県

宮崎県

西都市大字荒武・大字鹿野田

指定年月日:20000906
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

都於郡城跡は,宮崎県中央部の西都市南部にあり,一ツ瀬川の支流三財川右岸の標高約100メートルの台地上に位置する。南北朝期から戦国期にかけて,日向中央部に一大勢力を有した伊東氏の本拠として栄えた城跡である。
 伊東氏は,伊豆国伊東荘を本貫地とするが,鎌倉時代に日向国に地頭職を与えられ,南北朝期に足利尊氏に仕えて日向国都於郡を与えられ,一族は日向国に下向,都於郡初代の祐持が本拠地に都於郡城を築いた。南北朝期には都於郡城に本拠を置き,児湯郡,那珂郡,宮崎郡,諸県郡に勢力を拡大し,室町期には佐土原城(佐土原町),宮崎城(宮崎市)を築いた。やがて伊東氏と,日向への進出を目指す薩摩の島津氏との対立が激化していった。16世紀後半,一時飫肥城の攻略に成功したが,元亀3年(1572)の木崎原の戦い(えびの市)で島津氏に大敗した伊東氏は,豊後の大友氏を頼って日向を脱出し,都於郡城主としての伊東氏の時代は終わり,都於郡城は島津氏の支配するところとなった。江戸時代の初頭,島津氏の佐土原藩が発足すると,本城たる佐土原城に対して外城としての役割を担ったが,元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったと考えられる。
 都於郡城は,主体部である五城郭とその外側に連なる東ノ城,向ノ城,前ノ城,南ノ城等の出城からなっていた。主体部である五城郭は浮舟城とも呼ばれ,西を流れる三財川を自然の要害とし,周囲を急崖で守っており,本丸,二ノ丸,三ノ丸,西ノ城,奥ノ城の5箇の郭と,10数箇の腰郭からなっていた。本丸の周囲には高さ約1メートルの土塁が巡り,二ノ丸の東側から北側には高さ約2メートルの土塁が残っている。また郭と郭の間は,明瞭に残る空堀によって区切られている。
 昭和62年度の本丸跡の発掘調査によって多数の柱穴が検出されており,伊東氏在城の200数十年間に何度も建物の建て替えが行われたことをうかがわせる。出土遺物には,15〜16世紀の輸入陶磁器片が含まれている。
 都於郡城跡は,中世日向における伊東氏の本拠であり,日向の中世城館遺跡を代表する城跡である。よって史跡に指定し保護を図るものである。

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