米買仕切書
こめかいしきりしょ
概要
現高岡市伏木の近代化に尽力した、廻船問屋・実業家の藤井能三が発行した米買仕切書である。仕切書(仕切状)とは北前船主(問屋)や船頭が各地の問屋との売買が成立した際に作成される文書のこと。
本書は渡辺太平が藤井能三から計米250石(37.5t)を諸経費込みの1,687円余〔一説に約3,374万円相当(※1)〕で購入した際に作成されたものである。
宛先の渡辺太平はどこの商人かは不明で現在調査中である。通常伏木の廻船問屋は近隣で米を仕入れ、その多くは北海道へ移出し販売しているので、北海道の商人の可能性が高いと思われる(※2)。「御代 庄治郎」は渡辺の代理で実際に売買の対応をした担当者である。
藤井家は江戸時代、「能登屋」として伏木を代表する廻船問屋であった。しかし、「藤井家文書」(高岡市立伏木図書館蔵)の目録を見ても、仕切書原本は1点も無く(大豆や鰊の売買を集計した帳簿が3冊のみあり)、したがって本書は藤井家の商売の実態の一端をうかがい知ることができる極めて貴重な史料といえよう。
本書の端裏書(所蔵者のメモ書き)には「(朱文方印「立合」)/米 弐百五拾石」とある。
後半部には収入印紙が8枚が貼付してあり、上から50銭3枚、10銭1枚、5銭1枚、1銭3枚の計168円分である(本書の契約額の約1割)。
能三の署名下や収入印紙には朱文円印「越中国/伏木港/藤井能三」が捺されている。また、数量や金額などの要所6ヶ所に割り印(黒文方印)がみられる。裏面の紙を継いだ部分には同じ印が捺されており、「/\の/能登屋」とその印文が分かる。
状態は端部の破れや全体的にある中央部の断裂は裏面に雑な補修がしてある。また後半の上部、貼付されている印紙4枚を雑に剥がしたような痕跡もあり、あまり良いとはいえない。
【注】
藤井能三(のうそう)
没年:大正2.4.20(1913)
生年:弘化3.9.21(1846.11.9)
明治期の港湾改良者。越中国射水郡伏木町(富山県高岡市)の船問屋能登屋三右衛門の子。私費で伏木小学校,女子学校を作る。明治8(1875)年三菱会社代理店となり汽船を廻航させ,別に北陸通船会社を作った。灯台・測候所を作り,鉄道を引き,北前船の基地伏木港を明治22年に米など5品特別輸出港,同32年に開港場とする。また,ウラジオストク航路を開き,庄川の河口港であったが同川を分離し大型船の入港を可能とした。全私財を投じ対岸貿易を夢みた地域経済論者であり,日本海を眺望できる伏木小学校校庭に銅像がある。<参考文献>原田翁甫『三州船舶通覧』,高瀬保「富山県に於ける北前船主」(『日本歴史』274号),伏木港史編纂委員会編『伏木港史』(高瀬保)
(『朝日日本歴史人物事典』)
※1.1,687円余〔約3,374万円相当〕
物価は基準により様々あり、これは賃金により算出(明治時代は小学校の教員の初任給が1ヶ月で8~9円。現在の初任給は約20万円程度→1円は2万円)。
他に、「約251万円」となるのは、明治34年の企業物価指数(0.469)を基にした。2019年(令和元年)は698.8。およそ1,490倍の差がある→そのため1円は1,490円。
また、「約803万円」となるのは明治元年、白米10kgの価格は55銭、円に換算すると0.55円。現在、全国の全銘柄平均の白米10kgの価格はおよそ2,618円なので、1円は4,760円程度として計算。
「約641万円」となるのは、明治30年頃の物価と、今の物価を比較。今の物価は当時の3,800倍ぐらい。つまり明治時代の1円は、今の3,800円ぐらいに相当する。
(HP「なまぼう/お金の雑学コラム」野村ホールディングス・日本経済新聞社、HP「お金の育て方」吉野祐一監修)
※2.
当館には藤井家と並ぶ伏木の廻船問屋「堀田家」、及び「八坂家」の仕切書を含む古文書各一括が収蔵されている。堀田家の米仕切書38点の内、北海道との取引は34点(約89.5%)もある。また「函館幸町 渡辺商店」や「古平港 渡辺宗作」(3点)と取引した文書もある。
北海道との取引が少なかった八坂家文書内の米仕切書は9点あり、その内訳は堺4、大阪(現大阪市)2、下関(山口県)2、丹後宮津(現京都府宮津市)1であった。