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高橋政直(生源寺新村四郎三郎)由緒書

たかはしまさなお(しょうげんじしんむらしろうさぶろう)ゆいしょがき

概要

高橋政直(生源寺新村四郎三郎)由緒書

たかはしまさなお(しょうげんじしんむらしろうさぶろう)ゆいしょがき

文書・書籍 / 江戸

高橋政直  (1609~?)

たかはしまさなお

元禄11年8月/1698年

紙本・継紙(巻子装)・墨書

本紙:縦27.0cm×横164.2cm
全体:縦27.6cm×横187.8cm,軸長30.5cm

1通

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-239

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

射水郡生源寺新村(現射水市生源寺・生源寺新)(※1)を開いた高橋政直(生源寺新村四郎三郎/1609~? (※2))による由緒書き。原題は「武運淪落并素姓由来之遺書」。

内容を要約すると、政直の父・隼人(生没年未詳)は現高岡市福岡町の木舟城主・石黒成綱(?~1581/※3)の家臣であった(知行300石)。成綱は当初上杉謙信に従っていたが、天正6年(1578)謙信が亡くなると織田信長に従う。しかし、同9年(1581)7月、上杉への内通を疑う信長に安土城(滋賀県近江八幡市)へ呼び出される。隼人は木舟城に留守していた。成綱は家臣ら32人と共に安土へ向かうが長浜で信長の家臣・丹羽長秀に殺される。隼人はこの報を聞き、佐野村(高岡市佐野)へ引き籠り、百姓「四郎三郎」と名乗り窮乏に耐えていた。寛永10年(1633)には砺波郡大清水村(現高岡市戸出大清水)の御旅屋に身を寄せていた(隼人の没年は不明)。(政直は)寛文6年(1666)、信仰する家伝の歓喜天が夢に現れ、「弓の清水」(現高岡市中田)の東を開発せよとお告げを受ける。十村の川合又八にも「生源寺野」の開発を勧められ、引っ越した。まず用水(生源寺用水)を造成し粉骨砕身働いた。そしてついに生源寺新村の開祖となった。この大変な苦労を子孫が知らないのは遺恨なので、この由緒書きを作成した。

文中には現高岡市域の木舟城、石黒成綱、佐野村、戸出大清水(御旅屋)、弓の清水(中田)、川合又八(戸出の十村)などの地名、人名が登場しており、戦国末期から江戸中期にいたる越中史(中小武士の生涯、新田開発の様相など)の一端がうかがえる貴重な史料といえる。
状態は良好である。


【注】
※1 生源寺新村 しょうげんじしんむら
別紙、「生源寺新」『角川 日本地名大辞典 16富山県』(昭和62年再版、角川書店)を参照。文中に「開発には不作による開拓者の逃亡・灌漑水の争いなどがあって、土と運命をともにした開発主体高橋四郎三郎の辛苦と努力によって一村立てとなった」とある。

※2 高橋政直の没年について
別紙、土田古香『芹谷野用水誌』(1950年)には本資料の内容が記載されている。その末尾に「(高橋政直は)元禄十一年八月(西一六九八)行年八十九歳にて逝去した」と本資料の一文を引用している。確かに、「行年」を「ぎょうねん」と読めば「享年」の意味になる(「小学館デジタル大辞泉」)が、「こうねん」と読めば「これまで生きてきた年数。生存した年月。年齢。当年。」(「精選版 日本国語大辞典」)という意味になる。そして、本資料の署名の下に花押が据えてある。一般的に花押は本人しか書かないし、写しの場合は「書判」などと記す慣例がある。よって、ここでは当時89歳の政直本人が記したと解釈し、その没年は不明とした。

※3 石黒成綱 いしぐろなりつな
?~1581(~天正9・7)戦国末期の木舟城主。通称は左近・左近蔵人。1541年(天文10)ごろから天正初めまでの石黒氏の動きは不明であるが,石黒惣領家に対して木舟城(現高岡市福岡町)に拠る傍系の成綱が有力化したとみられる。越中へ進攻した上杉謙信に,越中国人として掌握されて家臣化し,77年(天正5)の『上杉家中名字尽』には石黒左近蔵人の名がみえる。天正6年3月13日の謙信没後,上杉氏では三郎景虎と景勝との家督争いが起るが,景勝からは謙信没後すぐに謙信在世中とかわらぬ忠節を求められる。しかし間もなく上杉方と結ぶ瑞泉寺・勝興寺に敵対し,織田方に属すようになるが,天正9年7月に安土城の信長に呼び出され,途中,長浜で信長の命を受けた惟住五郎左衛門(丹羽長秀)によって老臣らとともに謀殺され,木舟城の遺族・家臣も離散した。〈楠瀬 勝〉
(『富山大百科事典[電子版]』北日本新聞社、2010)

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