鮫ヶ尾城跡
さめがおじょうあと
概要
鮫ヶ尾城跡は、新潟県の南部、西頸城山地の一角を占める低丘陵に位置する。天正7年(1579)の史料に「さめかを」「鮫尾」と見える戦国期の山城である。上杉謙信没後、謙信の養子景勝と景虎による後継争いが表面化し、ついに天正6〜7年の御館の乱に発展する。その両者の最後の決戦場となったのが、堀江宗親が守っていた当城であり、景虎は当地で自刃したと伝えられている。
鮫ヶ尾城跡は、谷筋までの自然地形を含む範囲が約25万平方メートルに及び、その主な遺構は丘陵の主稜線上に並ぶ6箇所の大曲輪、6条の長大な堀切、100箇所を越える切岸などであり、遺構の残存状況は極めて良好である。これまでの発掘調査において、広範な範囲で被熱した16世紀後半を主体とする遺物がまとまって出土している。鮫ヶ尾城跡は、戦国大名上杉氏・武田氏の軍事的緊張の中で、強固な城郭造りが行われ、上杉氏の後継争いの主戦場ともなった城跡で、当時の姿から大きな改変を受けることなく良好に残っており、我が国戦国期の政治や築城技術を知る上で貴重である。