安土城跡
あづちじょうあと
概要
天正四年織田信長ガ丹羽長秀ヲ奉行トシ安土山ニ築カシメ同十年本能寺ノ變ニ至ルマデ信長ノ居城タリ變後間モナク天守閣火災ニ罹リ其後マタ附近ノ諸城築カルヽニ當リテ石材等ヲ取去ラシタレトモ本丸二丸以下石疊、磴道井泉等善ク遺存シ濠渠ノ阯マタ見ルヘキモノアリテ其ノ雄大ナル規模ヲ窺フニ足ル而シテ信長廟及總見寺マタ此ノ區域内ニアリ其ノ三重塔及樓門ハ現ニ特別保護建造物タリ
織田信長の築くところであって、天正四年正月着工、二月に岐阜からここに移った。爾後石垣、天守閣、殿舎等の造営をすすめ、城下町を経営し七年五月には天守閣成って、これに移る等、着々工事を進め、九年頃竣功したと認められる。十年六月本能寺の変後天守閣等罹災、ついで三法師これに移ったがのち廃城となった。
城は北方琵琶湖に向って長く半島状に挺出した独立丘陵の安土山に築かれ、西南麓から南麓にわたる水濠があって城地を■している。山の南部に位する最高所には天守台、御殿跡からなる本丸が営まれ、二の丸、三の丸等の諸郭はこれに相接し、黒金門跡はその入口を扼して堅固な中枢部をなし、北にやや低く八角平の一部を派出する。これを中心として山腹屋根の所々に将士の邸、蔵屋敷等と伝えられる削平地が数多く配せられ、南麓に大手、東南麓に東門の跡がある。またこの間にあって山の西南部には総見寺の楼門、三重塔が炎上の厄を免れて遺存し、二の丸には信長の墓が営まれている。
固より落城によって壯麗な建物は燒失しているが、諸遺構はよく旧規を偲ばしめるものがあり、本丸を始めとして諸郭、門等を堅める石垣、殊に壯大なる天守台はまことに■期的であり、城の立地またよく時代の先駆と称し得べく城郭史上屈指の遺跡で、学術上の価値が極めて高い。