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阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式)

あみだにょらいおよびりょうきょうじりゅうぞう(ぜんこうじしき)

概要

阿弥陀如来および両脇侍立像(善光寺式)

あみだにょらいおよびりょうきょうじりゅうぞう(ぜんこうじしき)

彫刻 / 鎌倉

鎌倉時代・建長6年(1254)

銅造、鍍金

(中尊)像高47.0 髪際高43.8/(左脇侍)像高33.0 髪際高29.6/(右脇侍)像高33.0 髪際高29.8

3躯

銘文:(中尊)背面刻書「善光寺如来〈一光三尊〉于時建長第六〈甲寅〉正月廿日/下野国那須御庄内東与世村/勧進上人西忍生年廿七/奉安置之依夢相之告鋳模之」/(左脇侍)背面刻書「建長六年〈歳次甲寅〉正月廿日鋳移勧進西忍生年廿七」

重要文化財

 仏教では、さまざまな名前、姿や形、役割をもった仏たちが登場します。その一人、阿弥陀如来は、西のかなたにある極楽浄土(ごくらくじょうど)におり、人が亡くなるとき、魂を迎えに、この世へ飛来してくると考えられました。如来(にょらい)とは、真理に到達した仏、あるいは悟りを開いた仏という意味です。なお、如来になるために修行をしている仏が菩薩(ぼさつ)です。「極楽往生」(ごくらくおうじょう)、つまり、亡くなったあと極楽浄土に生まれ変わりたいという人々の願いは、いつの時代も強いものでした。阿弥陀如来は日本では、7世紀から現在にいたるでまで、最も広くあつく信仰されてきた仏です。それにともない、仏像も数多く制作されてきました。
 この像は、阿弥陀如来とそれに付き従う2体の菩薩、いわゆる阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)です。銅に少しの錫(すず)をまぜた「青銅」(せいどう)を鋳造(ちゅうぞう)して作り、表面に金メッキをしています。中央の阿弥陀如来は、右ひじを曲げ、手のひらは5本の指を伸ばして胸の前に置き、左手はまっすぐ下におろし、人差し指と中指を伸ばしています。向かって右の菩薩は冠に如来の像、左の菩薩は冠に瓶(びん)をあらわしているので、それぞれ観音菩薩(かんのんぼさつ)、勢至菩薩(せいしぼさつ)と特定できます。2体とも胸の前で両方の手のひらを上下に重ねたようなポーズをしています。
 阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊は、日本ではセットで配置されることが多くありました。しかしこの像では、阿弥陀如来の指の曲げ伸ばしや、2体の菩薩の手のポーズに、ほかの阿弥陀三尊像と、やや異なる特徴があります。これは、現在も全国的な信仰を集めている、長野県の善光寺(ぜんこうじ)の本尊・阿弥陀三尊像を模した像と考えられています。善光寺の本尊は、6世紀中ごろ百済(くだら)より伝来したとの伝承があり、以後けっして誰も見ることができない「秘仏」(ひぶつ)とされてきました。11世紀ころより、極楽往生を願い阿弥陀如来を信仰することがさかんになるにつれ、善光寺本尊である阿弥陀三尊像への信仰も強まります。そして12世紀の末期ころから、善光寺の本尊を模したものである、という伝承をもつ像が作られはじめ、その動きは全国に広がっていきました。善光寺の本尊は秘仏で見ることができないため、その姿を礼拝したいと願う人々により、模像が作られたのです。それらの模像は、今ごらんになっている三尊像と同じ姿やポーズをしています。この形式を「善光寺式三尊像」(ぜんこうじしきさんぞんぞう)といいます。善光寺式三尊像は現在、全国にじつに200点以上が残っています。ふつうは三尊の背後に「光背」(こうはい)という板状の飾りが立てられていますので、この三尊像にももとは光背があったと考えられます。青銅製で金メッキしていることや、阿弥陀三尊のポーズは、6世紀から7世紀の仏像にも共通する部分があるといわれています。同じ時期に制作された仏像が、法隆寺宝物館にたくさん展示されていますので、ぜひ比べてみてください。
 阿弥陀如来の背中には銘文(めいぶん)が刻まれており、これが善光寺の阿弥陀如来を模して作った、光背(こうはい)付きの三尊像であること、1254年に現在の栃木県那須(とちぎけんなす)地域で制作されたことが記されています。日本の仏像の歴史においては、由緒ある仏像に信仰が集まり、その模像が作られるということがしばしばありました。善光寺式三尊像は、その最も典型的な例といえるでしょう。

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