朝鮮国告身〈万暦二十二年/〉
慶尚道観察使兼巡察使洪履祥伝令并書状〈万暦二十二年/〉
ちょうせんこくこくしん
けいしょうどうかんさつしけんじゅんさつしこうりしょうでんれいならびにしょじょう
概要
本三通は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役)において朝鮮半島へ出兵した毛利家の家臣萱島木兵衛が、日本へ持ち帰ったものと考えられる。これらは、いずれも万暦二十二年(一五九四)八月から十月にかけて発給されている。この頃、朝鮮を交えずに日明間で和議折衝が行われていたが遅々として進まず、出兵した諸大名は朝鮮半島南岸に「倭城」を築いて在番していた。毛利家が在番していた城は釜山城、東末城などであった。戦線全体では在番が長引き、逐電して明軍や朝鮮軍に投降する将兵(「降倭」)が続出していた。朝鮮国告身は、朝鮮国王が萱島木兵衛を武官に任じたもので、「折衝将軍」は武官の正三品上、「龍壌衛」は朝鮮国の軍組織である五衛の一つであり、「上護軍」はその武官である。料紙は五枚以上を合わせて厚さ〇・五ミリメートルほどにもなる厚手の椿紙である。大きさは、現存する「倭人」充の他の告身に比べると四分の一程度と小さい。洪履祥書状には、密使の懐に忍ばせるために紙が小さいが、「朝廷」の恩義に変
わりは無いと記されており、通常より小型の料紙が使われていたことがわかる。本告身の発給に関しては『朝鮮王朝実録』に詳しい記事があり、木兵衛投降の可否について国王と側近の間で議が行われていたことが知られる。また、告身発給以前に木兵衛から血判誓紙が送られていたことがわかる。洪履祥伝令は、かねてより日本軍中に潜入して動静を探っていた東莱の儒学生宋昌世に充てたもので、木兵衛の投降に尽力したことを称えている。洪履祥書状は、告身から約二か月後の日付であり、なかなか態度を明らかにしない木兵衛に対して強く投降を勧めている。本三通は、朝鮮侵略における「降倭」をめぐる日朝間のやりとりを具体的に知ることのできる史料であり、日朝関係史研究上、極めて価値が高い。