天正十三年閏八月二十五日付 前田利勝判物(二上渡守かた宛)
てんしょうじゅうさんねんうるうはちがつにじゅうごにちづけ まえだとしかつはんもつ ふたがみわたしもりかたあて
概要
小矢部川左岸の渡船場「渡り」(二上荘。現高岡市守護町)は、守山城下町付近にあり、古代以来の水陸交通の要衝である。
本史料において利勝(利長の前名)は、直前の領主、佐々成政(神保氏張)時代よりの二上渡守らの専業権を安堵し、新領地における統治の手始めとしたと考えられる。
この日付は、秀吉による佐々(越中)征伐の翌月であり、前田利家・利勝(利長の前名)父子が成政旧領の越中西三郡の統治を進めていた時期である(正式には9月11日に利勝は越中西三郡を拝領し、守山城主となる)。
慶長六年(1601)九月三日付前田長種判物(二上渡守船頭中宛/高岡市立博物館蔵)では二上の船頭に新造船を与えて人馬の渡船料を定めるなど、前田家はこの先も二上の船頭らに種々の特権を与えて保護・奨励した(明治初期までここには橋は架けられなかった)。
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【釈文】
二上渡舟之事、如先規罷出可相渡、自然非分申懸
族在之者可申越、堅可申付者也、
天正十三
閏八月廿五日利勝(花押)
二上
渡守かたへ