粉引茶碗(三好)
こひきちゃわん(みよし)
概要
粉引茶碗(三好)
こひきちゃわん(みよし)
東京都
朝鮮
素地は灰黒色を呈する陶胎で、腰が丸く張り、口縁が端反りとなる茶碗である。轆轤水挽きで薄く成形される。茶溜まりに渦状の轆轤目が残る。高台は竹節状に削り出し、高台内に低く兜巾が立っている。
内外面全体に薄く白化粧を施し、総体に透明釉を掛ける。釉が溜まった部分は、わずかに青緑色を帯びている。胴の一面の釉が笹の葉形に掛け外れ、その部分の白化粧地が露出して灰褐色を呈し、火間と呼ばれる景色をなしている。高台畳付から高台内にかけて五つの目跡がみられ、高台畳付を磨ってある。見込みに雨漏状の染みがある。火間の位置に長い入が一本ある。
高8.1~8.3 口径14.6~15.4 高台径5.7 (㎝)
1口
三井記念美術館 東京都中央区日本橋室町2-1-1三井本館7階
重文指定年月日:20160817
国宝指定年月日:
登録年月日:
公益財団法人三井文庫
国宝・重要文化財(美術品)
粉引茶碗は朝鮮半島で焼かれた高麗茶碗の一種である。茶会記における高麗茶碗の初出は、『松屋会記』「久政茶会記」の天文6年(1537)9月12日の条であり、天正年間(1573~92)になると、記載頻度が急増する。もとは、朝鮮半島の地方の民窯で焼かれた日用の器や祭器が、茶の湯の茶碗として見立てられたものである。博多遺跡をはじめとする日本各地の消費地遺跡の発掘調査の進展により、朝鮮半島産の陶磁器は、少量ながら継続的にもたらされていたことが明らかになった。高麗茶碗は、茶の湯の好尚の変化に伴って、これらの中から取り上げられたとみられる。やがて16世紀末頃になると、日本の茶人が好みの茶碗を朝鮮に注文して焼かせるようになった。
粉引茶碗は見立てによって取り上げられた高麗茶碗の一つである。灰黒色の胎土に白土を薄く掛けた柔らかみのある釉膚が、あたかも粉を刷いたように見えることからこの名があり、粉吹とも呼ばれる。朝鮮陶磁史の流れの上では、鉄分を含む胎土に白土を用いてさまざまな装飾を施す粉青沙器の最終段階に位置づけられる。高麗茶碗の多くは、半島東南部の慶尚南道産であるが、粉引茶碗を焼いた窯址は、半島西南部の全羅南道高興郡雲垈里、宝城郡道村里に発見されている。
粉引茶碗は伝世する数が少なく、とくに椀形のものは珍重される。三好粉引は、添状により三好長慶(1522~64)が所持していたことが知られ、「三好」の銘もこれに因む。その後豊臣秀吉(1537~98)、金森宗和(1584~1656)、北三井家を経て、安政2年(1855)に若州酒井家に移り、大正12年(1923)の同家売り立てで再び北三井家に買い戻された。
伸びやかで大らかな器形、柔らかみのある釉膚、釉が偶然掛け外れた火間など見所が多く、津田粉引[個人蔵]、松平粉引[東京都・畠山記念館蔵]と並び、粉引茶碗の中で最も声価が高い。