八乙女種まきザクラ
やおとめたねまきざくら
概要
八乙女種まきザクラ
やおとめたねまきざくら
山形県
エドヒガン 一幹(樹高17.74m、目どおり4.67m、根まわり8.30m)
白鷹町に残るエドヒガンの古木の一本。白鷹町役場より北へ約400m。最上川の東岸にある八乙女八幡神社の参道石段を上った先、鳥居の右手後方に立つ。
主幹は西方向にやや傾斜しながら延び、樹高約8mの位置で枝分かれし、上に延びる枝の樹勢はよい。主要な幹は数箇所を支柱によって支えられており、桜の根周辺は柵により囲まれ踏圧を防いでいる。白鷹町の支援を受けながら、八乙女種まきザクラ保存会により大切に保護管理されている。
八乙女神社は、伝承では寛治元年(1087)に源義家が東征の折、日頃崇拝する京都の石清水八幡宮を遙拝し、この丘に弓矢を奉り8人の乙女に舞楽を奉納させたことに由来するといわれている。
石那田城、八乙女城とも呼ばれるこの城は、荒砥上町との比高が17m、荒砥駅とは29mの高さにある独立丘上に造られた平山城である。城の規模の最も大きかったときには、根小屋集落を入れ東西400m、南北450mもあった。
城は独立丘を削り帯郭、腰郭、空堀を巡らし、根小屋と町屋を囲む水濠もあった。二の丸と根小屋を囲む水濠の一部、町屋を囲む堀跡の一部が今も確認される。
伝えによると、永長年間(1096-97)荒川次郎清泰が築城し、元中年間(1384-92)に馬場将監が堀を巡らすなどの整備を行ったと言う。
伊達文書などに、桑島氏・荒砥氏・松岡氏・大立目氏など下長井荒砥郷に知行を持つ者の名が見える。
江戸時代になってからは、現在の荒砥地区公民館のある郭面に御役屋が置かれ、当地管轄の中心となった。
この桜は、一説に、四百余年前に、荒砥城主「桑島和泉守」が、その前庭に植えたものと称せられ、昔は、この桜が咲いた時が、春の苗代に種をまく好期としたことから、通称「種まきザクラ」と呼ばれてきた。
西置賜郡白鷹町大字荒砥甲1092番
山形県指定
指定年月日:20131129
宗教法人八幡神社
記念物