木造薬師如来坐像
もくぞうやくしにょらいざぞう
概要
木造薬師如来坐像
もくぞうやくしにょらいざぞう
山口県
平安時代末期
形状)肉髻を盛り上げ、螺髪は細粒で、後頭部は省略されている。肉髻珠相をあらわすが、欠失している。白毫相は虫喰いのためか、痕跡がはっきりしない。眼は彫眼で、首は三道を刻出する。右耳は完全であるが、左耳は虫喰いのため欠失している。納衣は左肩を覆い、右肩に少しかかる。いわゆる偏袒右肩である。右手は肘を屈して斜上方にあげ、掌を前にして、施無畏印。薬指を少し前かがみにする。左手は体に副って下げ、肘を屈して膝上に置き、掌を上にして薬壺を持つ。両手はともに腕に差し込みとなっているが当初のものと見られる。
品質、構造)榧材の一木造りで、内操りは全くない。榧は緻密な材質で、仏像の彫刻には第一級の材である。この榧の材を上方頭部から、下方地付部まで一材でとり、それに左右の腕、結跏趺坐の両足を矧ぎ付けている。彩色は体部は金泥、納衣には赤青などの塗料で彩色があるが、すべて経験の無い素人による後補である。眉、眼、螺髪の墨も同様である。この仏像は最初、光背、台座がついていたと思われるが、現在は全く残っていない。
法量)像高:48.0cm、頂上~顎:15.0cm、面長:9.0cm、面幅:11.0cm、耳張:11.5cm 面奥:12.0cm、臂張:29.5cm、胸奥 11.0cm、腹奥:14.5cm、膝張:42.0cm、膝高:7.5cm 膝奥:27.0cm
1躯
山口県長門市仙崎3545番地
長門市指定
指定年月日:20150224
宗教法人清福寺
有形文化財(美術工芸品)
源平が京の都で両立していた頃、平家の人びとはこの薬師如来を尊崇していたので、家門はたいへん栄えた。平氏が源氏に追われ、京都を出たときも、この薬師如来も一緒に西下した。しかし壇ノ浦の戦いにおいて源氏に敗れた平家方は、この青海に逃げて来て、多くの者が自害して果てた。自害できなかった者や女子などは、この薬師如来を本尊とする寺をつくり、死んだ人びとを供養した。
その後しばらくは、寺は繁栄したが、時代が下って、毛利氏が領主となった頃、人びとの間には真宗信仰者が多くなった。そこで村人一同示談の上、真言宗寺院の寺を真宗寺院として再興することとし、藩に願い出て許可をうけた。そして元禄3年(1690)に真言宗の草堂を真宗に改宗し、本山から木仏免許を得て真宗寺院として正式に発足した。ここで清福寺の宗旨、本尊は変ったわけである。それで今までの薬師如来の本尊は別に安置することになった。宝永8年(1711)に薬師堂を新たに建て、薬師仏を安置した。現在は清福寺境内の西方の地に、新しく堂が建てられ、中に厨子も新しくして安置されている。