上野彦馬写場で撮影の鶏卵写真
うえのひこまじゃじょうでさつえいのけいらんしゃしん
概要
日本に初めて写真機が持ち込まれたのは、嘉永元年(1848)とされる。長崎の商人上野俊之丞によって、銀板写真の機材が輸入され、島津家へ献上された。
銀板写真は、映像は鮮明だが左右逆像で、複製ができず、露出に20分から数分かかった。
露出時間が短くなり、ネガから多くのプリントが可能となったのは、湿板写真が発明されてからである。ネガにガラス板を用いたことで、映像の左右逆転もなくなった。
文久2年(1862)には、上野彦馬が長崎で、また下岡蓮杖が横浜で写真館を開設し、営業写真家の先駆を成した。
武雄においても、弘化2年(1844)に、上野俊之丞から「写真鏡」を借りたことが古文書に見えるが、これが撮影用カメラのことかどうかは疑われるところである。
慶応4年(1868)には、家臣木々津又六が上野彦馬に写真術を教わりに行ったこと、それ以前、茂義の時代に機材が購入されていたことが、残された手紙などから確認出来る。
慶応年間に、彦馬の写真館で撮影された写真も、数枚残っている。
中の一枚に、坂本龍馬の肖像写真にも見える黒い台が写っている。露出中の体のぶれを防ぐためものだが、『写真の開祖 上野彦馬』(産業能率短期大学出版部・1975年)の監修者の一人である上野一郎氏によれば、この台は後に白く塗り直されたらしく、黒い台で撮影された写真は、現在までに龍馬、後藤象二郎、龍馬の同志渡辺剛八、佐賀出身で日本赤十字社の創立者である佐野常民など7枚しか確認されていない。写っている人物が特定出来ないのは武雄鍋島家旧蔵資料のものだけである。
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