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木造四天王立像

もくぞうしてんのうりゅうぞう

概要

木造四天王立像

もくぞうしてんのうりゅうぞう

木像 / 鎌倉 / 近畿

鎌倉時代(13世紀)/13世紀

(構 造)
材質不詳、一木造、内刳無し、彩色、彫眼
4軀ともに頭・体の幹部は、竪一材より彫出し、内刳を施さない。両手足、着衣先端部などに適宜別材を矧ぎつける。邪鬼別材製後補。
(形 状)
持国天は振り上げた左手に刀を執り、右手を腰のあたりで拳をつくり、左脚をあげて邪鬼の頭を踏む姿勢をとり、増長天は、左手を腰にあて、振り上げた右手に戟を執り、右脚をあげて邪鬼の頭を踏む。両像は左右相称の姿勢をとる。広目天は、両腕を屈し、左手に筆、右手に巻子をとり、邪鬼上に直立する姿勢を示し、多聞天は、左手は屈臂して高く挙げ、右手はおろして第2指を伸ばし、邪鬼上に直立する姿勢をとる。各像とも着甲、袴、天衣を着す。多聞天のみ兜を着ける。

持国天:総高190.4㎝・像高167.2㎝             
増長天:総高185.0㎝・像高165.2㎝                                     広目天:総高189.3㎝・像高166.3㎝                                   多聞天:総高190.8㎝・像高160.8㎝

4軀

神戸市指定
指定年月日:20130319

有形文化財(美術工芸品)

 本年度の指定候補である四天王立像は、一木造の堂々たる等身大の体躯を持つ一揃いと考えられる像。国宝に指定される本堂内陣の宮殿両脇に2軀ずつ直線上に安置される。
 太山寺に伝わる文書によると、本堂は承元3年(1209)8月27日、弘安8年(1285)2月19日の二度罹災しており、承元3年作成の『勧進帳』では罹災した仏像に四天王が含まれている。こうした文献の記載に従えば、制作年代は弘安8年(1285)から、本堂再建と考えられる正安4年(1302)の間が想定される。だが持国天・増長天の2躯にみられる、全体の重量感や躍動感を損なうことなく、細部まで巧みに掘り出された迫真的な面部や立体感のある軽やかな鎧の造形は、建暦2年(1212)造立の滋賀・西明寺木造四天王立像に通じる点がある。一方で広目天・多聞天の2躯は、前者に比べると全体に彫りが鈍く、鎧の重なり具合もぎこちないなど、平板で弛緩した造形を持つことから、弘安8年以降制作の可能性がないわけではない。
 表情の誇張が強まり、全体に弛緩した表現へ移行していく鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての作品に比べ、本四天王像ははるかに優れた作風をみせている。持国天・増長天と広目天・多聞天の作風の違いは、仏師の力量の差によるものと考えてよいであろう。一木造の内刳なしという古様な構造が4躯に共通する点もあわせて考えれば、本四天王像は一揃いのものであるといえ、制作年代についても鎌倉時代・13世紀に遡ることは確実であろう。

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キーワード

/ 多聞天 / 立像 /

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