衣川廃寺跡
きぬがわはいじあと
概要
S51-12-013[[衣川廃寺跡]きぬがわはいじあと].txt: 琵琶湖の西岸、[[堅田]かただ]の町の南方志賀丘陵の先端に、飛鳥時代末に営まれた寺院跡である。滋賀県教育委員会が昭和50年発掘調査した結果、極めて特異な伽藍配置をもつ寺院の全容が明確となった。
本寺院跡は、小丘陵上に占地し、まずその東縁近くに塔跡と思わせる基壇を残し、またその北西に金堂跡かと想定される基壇をとどめている。塔跡は、1辺14メートル、高さ1.25メートルを測る版築の見事な基壇であり、その上面に礎石根石が残存し、塔心礎の抜き穴などが残されていた。また金堂跡は現在東西18メートル、南北18メートルの版築の基壇を残しているが、旧規はやや東にのびるものであったと考えられ、基壇上面には礎石根石が残されていた。塔、金堂とも基壇縁化粧は見られず、また階なども現状では指摘できない。塔跡の西方にも建物の遺構はなく、同様なことは講堂、その他の諸堂、及び中門、南門などについても調査を行ったが、全くその遺構は丘陵上には存在しなかった。
従って、本寺跡は丘陵上に塔跡、金堂跡のみを具えるという極めて特異な伽藍配置をとるものであることがほぼ判明したのである。
なお、この伽藍のある小丘陵の南西縁、本寺院跡の寺域内に本寺の屋瓦を焼成した1基の登窯が発見されており、両者の関連もまた注目されるところである。いずれにせよ、飛鳥時代末に創建された極めて特異な伽藍配置をもつ地方寺院跡の一つとして重要なものである。