根子番楽
ねっこばんがく
概要
根子番楽は、武士を主人公にした舞を中心に、太鼓、笛、手びら鉦【がね】、拍子板【ひょうしいた】、ホラ貝の伴奏にのせて、勇壮にきびきびと舞うもので、東北地方に伝承されている修験系の神楽の中でも、特に歌詞や芸態の伝承が確実なものの一つである。
阿仁町【あにまち】は、秋田県の中央やや北寄りに位置し、またぎの里として知られる奥羽山脈に近い山がちの地である。町の中央を、能代【のしろ】平野を東西に貫流して日本海に注ぐ米代【よねしろ】川の支流の一つである阿仁川が流れている。根子【ねっこ】地区は、阿仁川から一キロメートルほど西側で、四方を山に囲まれたすり鉢状の盆地である。
根子番楽は、阿仁町公民館根子分館体育館で演じられる。当日になると体育館の舞台後方に番楽幕【まく】と呼ぶ布幕【ぬのまく】を張る。幕には、ところどころに縦に切り目が入れてある。向かって左に太鼓、板を二本の棒で叩く拍子板、手びら鉦の演奏者が座り、右側には笛の演奏者と手びら鉦の演奏者が座る。まず楽器演奏が行われ、次に口上【こうじょう】を述べてから舞が披露されていく。舞は、少年たちによる露払【つゆはら】いで始め、翁舞【おきなまい】や三番叟【さんばそう】、敦盛【あつもり】、信夫太郎【しのぶたろう】、鞍馬【くらま】、曽我【そが】兄弟、作祭【さくまつり】などと続き、最後に鐘巻【かねまき】が演じられる。なお、間に、観客の祝儀に対するお礼の口上や、お礼の意味を込めて、本舞台を踏む前の少年たちによる花【はな】番楽が行われる。
舞に先だって行われる演奏は、観客を呼ぶためという。演奏の途中に、幕の奥から掛け声やホラ貝も加わって、にぎやかに続く。演奏が終わると、口上役が出てきて、中央で口上を述べる。「我々は農業の働きをする者でござれば、御目【おめ】まどう所でございましょうが、聖人【せいじん】は人を誹【そし】らん…」などと述べ一礼すると短く演奏がある。演奏が終わって、しばらくすると幕出歌【まくでうた】と呼ばれる短い歌が歌われる。各演目ごとに決まった幕出歌によって舞手が登場して舞う。最初の露払いでは「よいよい、急ぎ行くほどに、よいよい、急ぎ行くほどに、伊勢の社【やしろ】に急ぐなり」と歌う。少年が烏帽子【えぼし】に白鉢巻、手甲【てっこう】脚絆、白の襷【たすき】掛け、白足袋、右手に扇を持ち伴奏にのって舞う。露払い以外の舞では、舞の途中で中歌【なかうた】と呼ばれる歌が歌われる。翁舞や三番叟、作祭は、儀式的な舞で比較的静かに舞われる。その他の舞は、鎧【よろい】を着けた舞手が、最初は扇を持って舞い、後半は剣を抜いて勇壮に舞う。鞍馬は弁慶と牛若丸の舞である。少年が扮する牛若丸が登場して舞い、後に弁慶が長刀【なぎなた】を持って登場して牛若丸と戦う。牛若丸は弁慶が払う長刀を飛び跳ねたり、とんぼがえりして避け、弁慶が持つ長刀の柄に牛若丸が立って、弁慶が牛若丸ごと持ち上げる。牛若丸は、弁慶の長刀の柄を軽く踏んで退場する。残った弁慶は、長刀を振り回したり、両手で持った長刀の柄を飛び越したりして、最後に一礼して退場する。鐘巻は、いわゆる道成寺【どうじょうじ】ものである。蛇の化身とされる者が山伏と争って退場した後に、幕の下方から長さ約二メートルの作り物の蛇が出る。この蛇は、頭部は木製で、胴は竹の輪に布を張った蛇腹である。頭部と尾の部分に短い棒を取り付けて、幕の奥から、幕の切れ目に棒を通して、表側の蛇を操作する。幕の切れ目から切れ目へと棒を持ちかえて、蛇を幕の下方から上端に移動し、最後に蛇の口に仕込んだ花火に点火し、火と煙を出して山伏と争うというもので、根子番楽では、必ず最後に演じる人気演目になっている。
根子番楽は、地元では平家の落人あるいは源氏の一族が伝えたものともいう。明治初期まで、伝承者は、根子地区の特定の家の長男に限り、厳しい訓練を経て仲間に加えていたとされる。大正中期には青年会が主体になり、昭和になると地区内の希望者が参加するようになって現在に至っている。根子番楽の演目や芸態などは東北地方各地で伝承されている修験系の神楽と共通するものが多い。本来、このような神楽は、御神体である獅子頭を奉じて地域をめぐって祈祷するとともに、地区の人びとの娯楽として種々の舞を演じてきたものである。根子番楽では、獅子舞を行わず、勇壮な武士の舞を中心に伝承し、作り物の蛇や牛若丸の所作など特色ある工夫を加えている。明治以前に伝承者が限定されていたのは、他地区の依頼に応じて番楽を演じて得られる収入を確保するために、伝授を限定したためともいわれる。この番楽が、獅子舞を行わずに、見所が多い勇壮な武士舞を中心にすることや、最初に観客を集めるために行う演奏、幕開きの口上挨拶などから、人びとの楽しみとして伝承され演じられてきたことがうかがわれる。
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国指定文化財等データベース(文化庁)