焼損具足
しょうそんぐそく
概要
佐賀藩主鍋島家の伝来資料は、享保11年(1726)と天保6年(1835)の2度にわたる佐賀城火災、安政2年(1855)の大地震などにより、国元と江戸屋敷双方の御道具が大きく被災した。そしてさらに明治7年(1874)、佐賀の乱で旧佐賀城三の丸にあった鍋島家の御蔵が類焼したことにより、具足を含む御道具の多くが灰燼に帰した。その焼け跡からは、辛うじて歴代藩主所用具足の鉄地が拾い出され、「焼損具足」と呼ばれて3領分が現存している。そのうち1領は所用者の伝承を伴わないが、ひとつは初代佐賀藩主鍋島勝茂所用、もうひとつは2代佐賀藩主鍋島光茂所用として伝来している。
本資料は2代藩主光茂所用と伝わる甲・面頬・胴・籠手・臑当の1具である(佩楯は欠失)。焼損した鉄地だけが部分的に残存しているため、もはや裂地や威糸、甲の立物等は失われており、塗りの情報も得難いが、形状は以下のような特徴をもっている。甲は桃形で、吹き返しは小ぶり。前立を装着するW字形の角本は、現存する初代藩主勝茂所用「青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」と同形であることから類推して、おそらく鍋島家の家紋である杏葉紋(ぎょうようもん)を付けていたものと思われる。さらに籠手は石畳状に組んだ珍しい鎖地の形状を呈した毘沙門籠手。また篠の上下と手甲部分には大きく古様な杏葉紋の金物が打たれている。
これら、杏葉紋の前立てを伴う桃形甲、杏葉紋が打たれ石畳状の鎖をもつ毘沙門籠手という特徴は、勝茂の御道具帳(「御什物方御書物之内写」)にある4領のうちの1領の記載と一致することから、初代勝茂から2代光茂への譲り物である可能性も考えられる。