留守家文書(百七通)
るすけもんじょ
概要
陸奥水沢領主留守家に伝来した文書で、文暦元年(一二三四)十一月廿九日関東下知状より安土桃山時代までの一〇七通を存する。
留守氏は、陸奥国留守職として奥州に入部した伊沢左近将監家景の子孫で、多賀城周辺の地を中心に所領を拡大して、奥州で有数の豪族となった。観応の擾乱においては尊氏方の畠山氏に従い、のち奥州探題大崎氏のもとで名取・宮城地方を支配するにいたった。その後、伊達氏の勢力下に入り、寛永二年(一六二五)以降は水沢一万石余を領して維新を迎えている。
留守家関係の文書のうち、留守嫡流の文書は戦国期に血統が絶えたため散逸して現存せず、本文書の中心をなす鎌倉、南北朝時代の文書三二通は、家政系余目氏の相伝文書である。本文書は、近世文書とともに戦後留守家より水沢市に寄贈されたもので、昭和五十三年、東京大学史料編纂所の整理を経て、うち九七通が六巻に成巻され現在にいたっている。
本文書は、こうした留守氏の歴史を反映して、所領関係のものが中心を占めるが、鎌倉時代の文書中、文永十二年(一二七五)岩城分七町荒野絵図は、新田開発の規模やその経緯を示す鎌倉時代の絵図としては東北地方屈指の遺品であり、弘安八年(一二八五)四月廿七日留守家広譲状など東国における在家支配の実態が知られる文書も少なくない。
南北朝時代の文書は、建武政府や足利氏のもとで活躍した留守氏の動向を伝え、観応元年(一三五〇)五月日留守家任申状などは当時の恩賞請求の手続を示している。室町、戦国時代の文書には、伊達氏の強い影響下にあって、留守氏が戦国大名として発展した過程が知られる文書が多く、なかでも、留守分限帳は、知行人ごとに地行地を貫高などで表記し、留守氏が軍役賦課の台帳に用いたもので、戦国大名留守氏研究上に重要な史料である。
このように本文書は、東北中世史研究に不可欠の文書として価値が高い。