和田家文書(百四通)
みきたけもんじょ
概要
本文書群は、和泉国大鳥郡和田庄(現・大阪府堺市南区美木多地域)を本拠とした在地領主和田氏に伝わった文書群である。和田氏は、和田庄を中心に池底や山林などに対する権利を持ち、所領経営を行っていた。鎌倉時代には御家人として奉公しており、和田氏は正慶二年(一三三三)の千早城の戦いでは幕府方として参戦した。南北朝時代には南朝方であったが、一四世紀後半には足利方に転じている。また、春日社や摂関家とのつながりを深め、所職を拡大し、室町時代にも所領経営を持続していた。
鎌倉時代の文書には幕府御家人役に関わる文書が多い。永仁六年(一二九八)の「山門蜂起」や元亨四年(三二二四)の正中の変に際しての着到状がある。文保元年(一三一七)と元亨四年には、鳴河堤が大破したため修築用途の負担を命じられている。千早城の戦いでは、二通の手負注文がある。文永九年(一二七二)の年紀がある「和泉国御家人大番役支配状案」では、和泉国上方の国御家人らの分限田数が記されており、和田氏は「十七丁九反/兵士七人」とあって、二〇人中四番目の規模であった。
南北朝時代では、南朝から和田氏に対して所職安堵や宛行を行ったものが多い。「和田庄惣下司職」、「大歌十生長官職」などの宛行や、蔵人への補任、吉野の御所の「惣門大番役催促」に関わる文書である。和田庄は本家を春日社、領家を金剛寺とする庄園であった。大歌は宮中の歌曲を掌る大歌所で、十生はその職員である。室町時代の文書には、応仁・文明の乱において和泉守護細川氏から和田氏に充てられた感状や書状が多数を占め、封紙と本紙が並べて貼られているものが多い。
本文書群は、畿内在地領主の実態を伝える、まとまった点数の類例の少ない史料群として貴重である。
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