山名氏城跡
此隅山城跡
有子山城跡
やまなししろあと
このすみやまじょうあと
ありこやまじょうあと
概要
H4-12-06有子城跡.txt: 山名氏は、室町幕府において四職家の1つであり、最大級の大名であった。一族が但馬、因幡、丹波、美作など11か国の守護職を兼帯して、「六分一殿」といわれたことが名高い。明徳の乱では一族相争ったため衰亡したが、嘉吉の乱で勢力を回復し、応仁の乱では、宗全(持豊)が西軍の総帥となった。
但馬は、南北朝の初期以来山名氏の根拠地であり、南北朝期後半以降戦国期まで一貫して山名氏が守護の地位にあった。この山名氏の本国但馬における居城が此隅山城であり、永禄頃まで使われた。またその後、天正期に山名氏が築いて移った城が有子城である。
此隅山城は、山名氏の本城であり、文中年間(1372-74)、山名師義が築城したという。標高140メートルの此隅山頂を中心に四方にのびる尾根上に削平による平坦地(くるわ)を多数設けている。南西にのびる尾根上のくるわには千畳敷の呼称がある。
山麓には、[[宗鏡寺]すきょうじ]、願成寺という地名があるが、かつてその名の寺院があったことを示している。ただし寺そのものはなく有子山麓(出石)に現存している。此隅城下にあった町が有子山麓に移転するにつれ、寺も移ったことを示すものである。此隅山の南方には[[天日槍]あめのひぼこ]を祭神とする但馬一宮、出石神社があるが、永享8年(1436)山名持豊が納めた自筆願文(神床家文書)が残っているように山名氏の尊崇が厚かった神社である。
文明15年(1483)8月、山名政豊は、赤松氏攻撃のため播磨に出陣するが、その出陣の翌日に出石神社の鳥居の横木が落ちたことが「実隆公記」にみえている。この予兆のように赤松攻は失敗に終わっている。また、永正元年(1504)には山名致豊と家臣垣屋続成の対立があり、此隅山城は垣屋氏の攻撃を受け、出石神社も灰燼に帰したという(神床家文書)。永禄12年(1569)8月、木下秀吉、坂井政尚らの織田軍が但馬に進攻すると、生野銀山、子盗(此隅)など18か所が落去(落城)したという(益田家什書)。この時山名祐豊は但馬を出奔して、堺の商人を頼ったが、織田信長に近かった豪商今井宗久の斡旋で但馬への帰国が許された。
こののちに山名祐豊が築いた城が有子城で天正2年(1574)頃のことという。その名は「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名されたものという。
有子城跡は此隅山の南2・5キロメートル、現在の出石の中心市街の南方標高321メートルの有子山にある。山頂に主郭とその西方に6段のくるわが階段状に続き、また主郭の東南に千畳敷と呼ばれるくるわがある。また山腹にはたてぼりの遺構も残る。
天正8年(1580)、木下秀長の但馬侵入によって有子城主山名氏政(祐豊子)は因幡に出奔した。このあとは秀長が入城し、のち天正13年(1585)前野長康が5万石で入城するが、文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連坐して改易され、その後は小出吉政が6万石で入城し、やがて吉政による近世出石城築城によって廃城となった。有子山頂にはみごとな石垣が残存しているが、織豊期のいずれかの大名によって築かれたものであろう。有子城は中世の城郭が近世の城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく示すものである。
このように山名氏は室町幕府の中心的な存在であって、その動向は室町時代の政治体制に常に大きな影響を与えつづけた。山名氏はその性格上、在京することが多かったとはいえ、此隅山は本国但馬における守護所として重要な役割をはたしてきた。また有子城はその山名氏の盛衰を示す遺跡であり、かつ織豊期における城の形態をも良好に示している。
すなわち両城跡はわが国の中世の政治史と城郭のあり方を示す遺跡として貴重であり、史跡に指定してその保存を図るものである。