天霧城跡
あまぎりじょうあと
概要
S52-12-042天霧城跡.txt: 天霧城は、仲多度平野西北に位置する天霧山に築かれた中世讃岐国の豪族香川氏の居城である。香川氏は、南北朝時代には、細川氏の被官になっていたようであり、天平17年、細川頼之に従って坂出の南朝方の細川清氏を攻め滅ぼした際、その軍功により讃岐の三野・豊田・多度三郡を所領として与えられ、この時、多度津の本台山に居館を設け、天霧山に詰城を築いたと伝えられる。のち、天正13年(1585)に、香川氏が、土佐に移った後廃絶した。
天霧山の最高所の馬背状尾根には、天霧城の主郭ともいうべき大小10区画の郭が階段状に連らなり、これらの郭群は鞍部にある幅5メートル、深さ3メートルの堀切によって二分される。この尾根の北端から北方へのびる尾根は、多度津に至る大手道であり、三群の段状郭遺構がみとめられる。また、山頂から東北方に屈曲する尾根に三群15個所、東方へ続く尾根にも大小11個所の郭跡がある。山頂から西南、いわば搦手であり、尾根沿いにも郭跡等の遺構が残存する。なお、水手としては、馬背状尾根の堀切附近に岩を穿った井戸、西南尾根鞍部附近に「池窪」の名をのこす湧水池跡が確認されている。
天霧城跡は、南北朝時代から戦国時代に至る四国の政治勢力の動向を知る上で逸することのできない遺跡であり、その遺構も、中世山城の好例を示すものである。
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国指定文化財等データベース(文化庁)