八木城跡
やぎじょうあと
概要
八木城は、中世但馬きっての豪族八木氏の城跡で山陰道に面した八鹿町八木の集落の後方の山上にある。
八木の地は古来より但馬と因幡を結ぶ交通の要衝の地で、『延喜式』には「養耆」駅が記されている。この一帯は中世には日下部を本姓とする八木一族の支配するところとなっていた。八木庄の地は日下部姓八木氏の、また隣接する朝倉庄の地は日下部姓朝倉氏の苗字の地であり、「但馬国大田文」によればこの八木一族の有する荘園所職の面積総計は、守護の有する荘園の面積総計よりも、はるかに多かった。この八木一族は先祖と伝える表米親王(表米王、表米命、表米宿祢とも)を尊崇し、彼を祭神とする赤渕神社を但馬国内各地に祀っていた。なお戦国大名朝倉氏の出身はこの日下部姓八木氏(朝倉氏)であり、越前一乗谷にも赤渕神社が祀られている。
この鎌倉時代の八木氏の館は八木城の麓の小字殿屋敷の地と考えられ、やはり北方に赤渕神社が祀られている。平成元年に行われた発掘調査の結果、堀・掘立柱建物が検出され、遺物も12世紀後半から14世紀後半にかけての中国陶磁多数のほか和鏡、石鍋などが出土している。南北朝期になると、山陰道を通じて山名氏が因幡から但馬に進出してくるが、八木氏は山名氏に一早く従っている。室町期には垣屋氏、大田垣氏、田結庄氏とならび山名四天王と称された。応仁・文明期のころの人八木宗頼とその子遠秀は詩人・歌人としても著名であったという(「黙雲藁」「禿尾長柄箒」)。彼らは但馬守を称したといい、楞厳寺文書や日光院文書には「八木但馬守」の名がみえるが、但馬の盟主を自負したものか。しかし天正8年(1580)羽柴秀吉の但馬進攻の際、八木但馬守豊信はそれに従い、続く因幡攻に参加して因幡の[[若桜]わかさ]鬼ヶ城に移された。
この室町期の八木氏の居城に該当する城が「[[土城]つちじろ]」であり、城山の最頂部(標高409メートル)に、山稜上に連続するくるわを置き、城がまえとしている。土塁をもつくるわも多数ある。
八木氏が去ったあとの八木城には天正13年(1585)播磨から別所重棟が1万5千石で入城し、その子吉治が慶長2年(1597)丹波園部に移った際に(慶長6年丹波綾部に、あるいは丹波北由良に移ったとする史料もある)この城も廃城になったものと思われる。
この時期の八木城の遺構は城山の中腹の平坦地に残っている。主郭は三方に初期穴太積になる高石垣を持ち、その高さは9・5メートルと、この時期のものとしてはきわめて高い。この東方につづく尾根上の平坦地には7つの階段状のくるわが連続するが、山腹にも多数のくるわを配しており、土城とは相当に異なる趣を示している。
なお但馬八木氏の因幡への配置、また播磨別所氏の八木城への配置は、同じ但馬垣屋氏の因幡浦留・桐山城への配置、また播磨赤松氏の但馬竹田への配置にみるように、織豊政権の版図拡大過程における大名配置、すなわち既征服地の部将を新征服対象地に配置するという方法をよく示すものである。
このように八木城は一連の場所に鎌倉期の館(殿屋敷)、室町期の土城、織豊期の石垣を築いた城が残っており、きわめて貴重である。また城主であった八木氏は越前朝倉氏との関係や守護山名氏との関係上重要な存在である。また織豊期におけるこの城をめぐる動向はその時代の武将配置を典型的に示してもいる。さらに初期穴太積による高石垣は、類例の少ないきわめて貴重なものである。これら、この城のもつ歴史的性格と遺構のもつ特色はきわめて重要であり、この城跡を史跡に指定し、その保存を図るものである。