堂ノ上遺跡
どうのうえいせき
概要
S52-06-013[[堂]どう]ノ[[上遺跡]うえいせき].txt: 琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる瀬田唐橋を東に行くと、近江一の宮建部神社を経て近江国府南縁に至る。近江国府は方八町の府域をもつが、その府域の西南隅に西接して建部神社が見られ、その社地の南に接する小台地上にこの堂ノ上遺跡が所在する。昭和50・51年、滋賀県教育委員会が発掘調査し、重要な成果を収めている。基底幅3.5メートルを測る築地塀が南北に走り、その西に南北11.5メートル、東西26.1メートル以上の範囲を囲む雨落溝が検出され、ここに大規模な瓦葺建物の存在したことが確かめられ、またこの建物の北にも同様な瓦葺建物の存在が推測されているが、未調査のためその規模などは不明である。先の瓦葺建物の東南には、小規模ではあるが桁行四間・梁間一間の南北軸の瓦葺建物があり、築地塀と平行しこれら諸建物が、相互に関連し同時に営まれたものであることを教えている。こうした瓦葺建物について掘立柱建物群が造営されたようである。これらの建物はさきの大規模な瓦葺建物の位置に桁行五間・梁間三間の建物が、またその東南方の小規模な建物の位置に桁行五間・梁間一間の長い建物が営まれ、それぞれ先の瓦葺建物の後身建物かと考えられている。
本遺跡では、近江国府において用いられている屋瓦と共通する屋瓦が使用されている。これらの屋瓦はほぼ奈良時代末から平安時代初期に編年されるものであり、瓦葺建物群の存続時期が知られるが、後身の掘立柱建物群の存在が知られているので平安時代前期までは存続したものと考えられる。なお、本遺跡から発見された一平瓦には「承和十一年六月」の記年銘のあるものがあり、注目されている。
本遺跡は、近江国府の府域外に営まれたものであるが、大規模な瓦葺建物の存在、それらの建物の配置や、存続期間を考え合わせれば、近江国の行政機構に係る遺跡かと推測されており、将来近江国府なり地方行政機構の実際を考える上で重要な役割を果たす遺跡と考えられる。