纒向遺跡
まきむくいせき
概要
纒向遺跡は、奈良盆地東南部に所在する、3世紀初頭に突如出現し、4世紀初めに営まれた大規模な集落跡である。周辺には、纒向石塚古墳をはじめとする史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が点在している。
この遺跡については、昭和46年以降、桜井市教育委員会及び奈良県立橿原考古学研究所が176次にわたって発掘調査を実施してきた。その結果、遺跡は東西2キロメートル、南北1.5キロメートルという、当該時期では類をみない規模であることが判明した。今回指定しようとするのは、そのなかの、辻地区と太田地区の一部である。
辻地区においてはすでに多数の掘立柱建物、大規模な水路、祭祀土坑などが検出されている。平成20年からの調査で掘立柱建物は3世紀前半期とみなされるもので、3棟の掘立柱建物が東西に連続して存在している。もっとも大きい建物は、桁行4間、梁行は現状で2間、復元すると4間と考えられ、南北19.2メートル、東西12.4メートルで、その西側には、独立棟持柱建物、さらにその西にも掘立柱建物が検出され、柵で囲まれていた。
さらに、その西側にも多くの柱穴及び井戸が確認されている。これらは、微高地に位置し、軸線と方位を揃え、一連の建物群は強い規格性を有しており、これらは居館を構成するものとみなされる。その範囲は東西150メートル、南北100メートル前後の方形を呈すると考えられている。また、建物廃絶後の庄内式期の長径4.3メートル、短径2.2メートルの土坑からは、線刻のある土器や底部穿孔の土器、ヘラ状木製品や黒漆塗りの弓、剣形木製品などが出土した。このほか、イワシ類・タイ科などの魚類、カエルなどの両生類、ニホンジカ・イノシシなどの哺乳類、そして2000個以上のモモの種などが出土し、当時の祭祀のあり方を知る上できわめて重要である。
一方、辻地区の南方、谷を挟んだ太田地区では、掘立柱建物、祭祀土坑などと、墳長28メートルの前方後方墳(メクリ1号墳)、方形周溝墓、木棺墓、土器棺墓なども検出された。時期は庄内式期であり、史跡纒向古墳群などと同時期である。
このほか、この遺跡で注目される出土遺物としては、東海をはじめ、南関東から北部九州という広範囲にわたる他地域の土器が出土していることである。地点によっては全体の15〜30パーセントを占め、この遺跡の性格を考える上で重要である。このほか、銅鐸片や鳥形・舟形の木製品、木製仮面の出土も注目される。布留式期になると、鞴の羽口や鉄滓なども出土し、鉄器製作を行っていたことも明らかとなっている。
纒向遺跡は、3世紀初頭から4世紀始めにかけて営まれた、きわめて大規模な集落跡である。しかも、本遺跡のような規格性のある建物群は例がなく、当該時期の首長居館の構造を知る上できわめて重要である。また、同時期の居住域や墓域及び祭祀遺構、大溝などが広範囲に広がっていることも明らかとなった。出土遺物も豊富で、東海系の土器をはじめとする他地域の土器が多数出土する点も注目される。この遺跡周辺には、史跡纒向古墳群や箸墓古墳など出現期の古墳が多数存在し、これらの古墳との関わり、すなわち大和政権と関わりのある遺跡とみなされる。このように、纒向遺跡は我が国における古代国家形成期の状況を知る上できわめて重要である。今回、もっとも保存を急ぐ居館域等を史跡指定し、保護を図ろうとするものである。