恵美須ヶ鼻造船所跡
えびすがはなぞうせんじょあと
概要
恵美須ヶ鼻造船所跡は、幕末に萩藩が洋式帆船を建造した造船所跡である。遺跡は山口県萩市中心部から北東へ約2.5キロメートルの小畑浦に位置し、近傍には史跡萩反射炉(大正13年12月9日指定)が所在する。嘉永6年(1853)のペリー来航に衝撃を受けた江戸幕府は、海防強化を図るため諸藩に大船建造を解禁し、翌安政元年(1854)には浦賀警備に当たっていた萩藩等に対して大船建造を要請した。萩藩は財政逼迫等の理由から当初これに消極的であったが、桂小五郎の尽力によって安政2年に大船建造を決定した。桂は浦賀奉行組与力の中島三郎助の助言を得ながら、伊豆の戸田でロシアのスクーナーを建造した経験を有する大工高崎伝蔵を萩に招聘した。安政3年4月、萩小畑浦北端の恵美須神社の先、当時は武家下屋敷地及び埋立地であった恵美須ヶ鼻の地が建設場所に選定され、「スクー子ル打建木屋」「絵図木屋」「蒸気製作木屋」「大工居屋」「会所」等が置かれ(『丙辰丸製造沙汰控』による)、萩藩最初の西洋式木造帆船の建造が進められた。同年12月に進水、安政4年春に完成し、丙辰丸と命名された。丙辰丸の規模は総長81尺、肩20.15尺、深さ10.3尺、2本マストの「スクーナー君沢形」である。造船に必要な原料鉄は大板山鑪場(史跡大板山たたら製鉄遺跡)から供給された。完成した丙辰丸は主に大坂や長崎を往復して物資輸送に当たった。
その後安政6年、萩藩は再度帆船の建造を進めた。山田亦介らが責任者となり、長崎の海軍伝習等でオランダのコットル船建造技術を学んだ藤井勝之進が設計にあたり、長崎の船大工を招いて建造を進め、万延元年(1860)に完成、庚申丸と命名された。庚申丸は総長144尺、肩27.72尺、深さ26.4尺、3本マスト(3檣帆船)のバーク型であり、萩藩の海軍教育に当てられた。こうして萩藩は洋式木造帆船の自力建造に成功したが、蒸気船が主流となる趨勢のなか、外国製蒸気船を購入することに方針を変更し、恵美須ヶ鼻造船所での新たな艦船建造は行われず、閉鎖されたものと考えられる。
萩市教育委員会では、平成21年度から平成24年度にかけて、恵美須ヶ鼻造船所跡の発掘調査や文献調査等を実施した。その結果、丙辰丸建造に際して設けられた造船場「スクー子ル打建木屋」想定地点で落ち込み遺構、「大工居屋」「綱製作木屋」と考えられる遺構、「カジ場」想定位置で炉跡遺構等を検出した。また、平成24年度には庚申丸建造時の造船場に関わると想われる石積遺構を検出した。また、現存する石造防波堤は、当時の史料にみえる「今浦波戸」と考えられる。
このように、恵美須ヶ鼻造船所跡は、幕末に萩藩が洋式木造帆船を建造した造船所跡である。発掘調査によって造船所の遺構が残存していることが判明し、幕末の洋式造船技術の導入期の様相を知るうえで貴重であることから、往時の造船所跡の範囲を史跡に指定してその保護を図るものである。