豊前街道
南関御茶屋跡
腹切坂
ぶぜんかいどうなんかんおちゃやあと
概要
南関御茶屋跡は、熊本県北部、福岡県に接する南関町の中心部に所在する豊前街道沿いの藩主等の休憩・宿泊施設跡である。
南関町は、古代には官道が通り、大水駅が置かれ、併せて国境警備のための関が設けられていたとされる場所であり、交通の要衝として発展した地域である。関所は、その後も機能し、現在の地名に通じる「ミナミノセキ」という地名が定着したとされる。近世においても道は、豊前街道として利用されており、特に江戸時代後半は参勤交代の道として利用されることが多くなった。
南関は、肥後藩主等の参勤交代の際に利用された肥後国内における最終の休憩・宿泊地点であり、そのための施設として御茶屋が設置されることになったものである。寛永17年(1640)の記録では、御茶屋の建替工事が長期にわたっていることが見えることから、江戸初期から施設の整備が行われていたことがわかる。
現在の御茶屋跡の建物は、嘉永3年(1850)に起工して、同5年に竣工したもので、『南関御茶屋新規建て方見積り』(瀬上文書)によると、改修理由はそれまでの建物が古く、狭いもので、間取りが悪いものであったためとしている。建替工事に携わった人々や工事の内容、各村々からの出夫の人数などは『町在』(永青文庫)や『木下助之日記』(木下文庫)によって把握できる。
現在残っている建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されている。御居間の改修、玄関棟の欠損はあるが、建物全体としては往時の御茶屋の姿をよく残しているものである。屋根には、細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれ、建物の北側に小規模な庭園も造られている。
この御茶屋は、御客屋とも呼ばれ、資料には両方とも記載されているが、一般的には御茶屋と通称されていたものと考えられている。
このように近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、往時の建物構造を残していることは、我が国近世の交通史を考える上で貴重で、現在整備が進められている豊前街道と一体的に保存すべき物件であり、建物の保存の緊急性から先行して史跡指定を行い、保護を図ろうとするものである。