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萩往還

はぎおうかん

概要

萩往還

はぎおうかん

史跡 / 中国・四国 / 山口県

山口県

山口市、萩市、防府市

指定年月日:19890922
管理団体名:防府市(平26・10・7)

史跡名勝天然記念物

萩往還は慶長9年(1604)萩城築城後その城下と三田尻(防府)をほぼ直線で結ぶ参勤交代道として開かれた陰陽連絡道で、全長およそ53キロである。昭和56年度以降萩市、旭村、山口市、防府市の四市町村が歴史の道整備事業を実施してきた古道である。
 萩城々下[[唐〓(*1)]からひ]の札場を出発した道は[[悴坂]かせがさか]を経て[[明木]あきらぎ]に向かう。途中涙松、一里塚、刑場跡を通過するが、涙松は安政6年(1859)護送される吉田松陰が
 かへらじと思いさだめし旅なればひとしほぬるる涙松かな
と詠んだ場所といい、悴坂一里塚は唐〓(*1)札場から一里に当たる。刑場跡は宝暦9年(1759)藩医栗山孝庵が女屍解剖を行ったところであり、悴坂の峠には駕籠建場が復原されている。[[明木]あきらぎ]から[[佐々並]ささなみ]へは1升谷を経て[[釿切]ちようなぎり]を越え、さらに[[千持]せんもち]だおを越える。従来1升谷には部分的な石畳の存在が知られていたが、今次の事業により土中に埋もれていた石畳が総延長250メートルにわたって連続して検出された。
佐々並から板堂峠を経て山口に向かうが、途中に上長瀬一里塚(唐〓(*1)札場より5里)、逆修石がある。逆修石は『防長地下上申』や『防長風土注進案』によれば一の坂銀山(大内時代より操業)に関わる逆修施行の場であったといい、銀山活動もあって往来がさかんであったことをしのばせる。板堂峠は防長2国の国境にあたり、文化5年(1808)建立の国境の碑がある。
 板堂峠を下った所には一の坂一里塚(唐〓(*1)札場より6里)と六間茶屋跡がある。一の坂一里塚は崩壊が著しかったので復旧し、六間茶屋には便益施設が復原修景的に設けられている。
 山口からは〓(*2)山峠を経て宮市にむかい三田尻に至る。宮市には本陣[[兄部]こうべ]家の建物が残る。兄部家は元応元年(1319)周防国合物売商人等長職に補されたという伝えをもつ古い家で、『防長風土注進案』は寛永19年(1642)より「御大名様方御本陣」と記している。
 三田尻には御茶屋、御船倉、燈台が残る。三田尻御茶屋は承応3年(1654)2代藩主毛利綱広が建設し、藩主の参勤交代、封内巡検、公式賓客の旅館にあてた施設で、安永5年(1776)7代重就により、また嘉永4年(1851)13代敬親により改修されており、文久3年(1863)には三条実美ら7卿の宿舎となっている。
 また御船倉は藩主御座船以下関船、早船等大小艦船を囲った場所であり、住吉神社に残る石造燈台は文久3年(1863)に建立されたもので、高さ7メートルに及び海上交通の安全に寄与してきたものである。
 萩往還は参勤交代道として、あるいは近世民衆の交通路として、さらには維新の志士たちの交通路として重要な役割をはたしつづけてきた古道である。今回は歴史の道整備事業が終了した箇所を中心として古道およそ9・2キロと茶屋・本陣・一里塚・船倉・燈台等の関連する交通遺跡について史跡の指定を行い、その保存を図ろうとするものである。

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