天赦園
てんしゃえん
概要
宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部にあり、第7代宇和島藩主伊達[[宗紀]むねただ]の退隠の居所潜淵館の建築と同時に文久3年(1862)に勘定奉行の釆配によって築造されたものである。初代藩主秀宗は、仙台藩主伊達政宗の長子であって当藩主となったが、天赦園の名は、政宗が退隠のときの詩の一句(「残躯ハ天ノ縦ストコロ」)からとったものという。潜淵館は明治29年に取り払われ、その跡は今は芝生となっている。
広い池を主体とする庭園で、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に一小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いてある。池の東部は延びて枯流(玉石敷)としてある。園の周囲はクロマツ・クス・ウバメガシ等の常緑樹で外景を遮断し、園内には、各種多様の暖温帯性植物が植栽されており、ビロウのごときも庭樹として用いられているが、中でもタケとフジの種類が多く本園独特の風致を生み出している。
作庭年代は比較的新しいが、全体の意匠と細部の技法にみるべきものがあり、かつ庭景の変化が豊富であって廻遊式庭園の特色をよく表現している。鴨場などの実用的施設も残存し、小規模ながら江戸末期における大名庭(だいみょうにわ)の形態もとどめている。伊達宗彰氏の所有である。