柏原藩陣屋跡
かいばらはんじんやあと
概要
S45-5-116[[柏原藩陣屋跡]かいばらはんじんやあと].txt: 柏原織田藩は、慶長3年、信長の弟[[信包]のぶかね]が封ぜられてから、一時家系が絶え、天領となったが、元禄8年、大和宇陀郡松山より、[[信休]のぶひさ]が移封され、その子孫が代々2万石を領し、明治維新まで、織田家が藩主となっていた由緒ある藩である。
藩邸は、正徳4年にはじめて造営されたが、文政元年(一説に文化13年)に焼失した。その後再建され、明治5年の学制発布により、翌年、豊岡県より払い下げられて[[崇広]すうこう]小学校の校舎となった。
現在、小学校に残る建物は、玄関・式台と、これにつづく書院上段の間・同次の間・御使者の間・同次の間と、これをとりまく入側の部分にすぎない。大正3年まで残っていた他の部分は、取りこわされるか、建て替えられた。しかし、大名陣屋として原位置に残るものは他にないので、きわめて貴重である。藩邸の長屋門は、小学校正門として用いられているが、桁行13間半、梁間2間で、造営当初のものといわれる。
柏原藩陣屋が、大名陣屋の構造としてのみならず、それが明治の小学校校舎に転用され、現在にもなお続いていることは、わが国の学制の発達を知る上でも数少ない事例である。