犬山城天守
いぬやまじょうてんしゅ
概要
犬山城天守 一棟
犬山城は、織田広近によって文明元年(一四六九)に定められた木下城が始めである。その後、天文四年(一五三五)に織田信康は城を現在の城山の南西にある三光寺山に移し、関ヶ原の戦ののち慶長六年(一六〇一)になって、清州城主徳川忠吉の老臣小笠原吉次によって現在の地に城が築かれることになった。犬山城は尾張(愛知県西半部)の最先鋒として、長良川を前にした美濃(岐阜県南部)を望む小高い丘の上に建つ平山城である。昭和四十年の解体修理にさいしての調査で、始め二層の櫓ができ、その上に望楼がのり、さらに望楼の基部に唐破風を加えるなどの大きな改造を経て、現在みるような姿になったことが明らかにされている。最初に櫓が建てられたのは関ヶ原の戦が終わって移封された小笠原吉次の時代、望楼を上げたのは成瀬正成が城主であった元和六年(一六二〇)ごろ、その後の改造はさらに十数年経たころで、つぎの城主成瀬正虎によると考えられている。
入り口は正面の石垣南面にあり、石垣内の狭い地下二、地下一階を経て一階に出る。一階は台形で、周囲に幅二間の入側をめぐらし、その内部を上段の間を主室とする四室に分けている。上段の間は畳敷で、押板床・違棚・帳台構を備える書院造の座敷である。しかし、この上段の間の床は始め他の部分と同じ高さの板敷で、床・違棚・帳台構がつくられたのも床を高くしたのと同時期の文化(一八〇四―一八一八)ごろである。
【引用文献】
『国宝大辞典(五)建造物』(講談社 一九八五年)